第7話 選ばれし勇者(バード)
王都グラン・アルカの支配圏を遠く離れ、南へ数日。
深い渓谷を切り拓いて築かれた自由交易都市「リンドブルム」は、中央の統制が及ばぬ土地らしく、混沌とした活気に満ちていた。
各国から集まった商人や賞金稼ぎ、流れ者の冒険者たちが行き交う石畳の通りで、ネロはふと足を止め、すれ違う人々へ意識を向ける。
威勢よく木箱を運ぶ荷運びの男は「Lv.14」。
串焼きの屋台で炎を操る小柄な少女ですら「Lv.9」。
日々の暮らしを営む市井の民であっても、この世界に生きる者たちは当たり前のようにレベルを持ち、その数字は生まれ持ったジョブと並んで、その者の価値を示す一つの指標として扱われていた。
ネロは懐からギルドプレートを取り出し、親指の腹でそっと表面を撫でる。
・ネロ:Lv.0[選ばれし勇者]
【筋力:―/魔力:―】
荒野で女神モヒーニカと出会って以来、ジョブだけは以前の[バード]から[選ばれし勇者]へ変化していた。
それなのに、レベルは未だ『0』のまま。
どれほど凶悪な魔獣を単独で討ち滅ぼしても、その数字は微動だにしなかった。
筋力と魔力も、相変わらず数値として表示されない。
かつて王都のギルドで浴びせられた「寄生虫」「奴隷以下のゴミ」という嘲笑が、冷たい風の音に混じって耳の奥へ蘇った。
胸の底へ沈殿した澱のような劣等感は、どれほど成果を上げても完全に消え去ることはない。
(……僕は、やっぱり数字の上では何も持っていないんだ)
小さく息を吐き出し、ネロは街外れに佇む静かな宿屋「木漏れ日亭」へ戻った。
薄暗い木造の階段を上がり、あてがわれた簡素な一室の鍵を開ける。
部屋のテーブルの上には、ここ数日の単独討伐で手に入れた革袋がいくつも置かれていた。
中には、ずっしりと重い金貨が詰まっている。
街道を封鎖していたオーガの群れも、空を飛び回る凶悪な飛竜も、今のネロにとっては決して倒せない相手ではなかった。
手にした木製の横笛へ息を吹き込み、敵が発する音律を読み取り、その場で必要となる調律を組み上げればいい。
かつての仲間たちのように、大戦斧で両断したわけでも、極大魔術で焼き尽くしたわけでもない。
それでもネロの奏でる旋律は、強大な魔獣の動きも、体内を巡る魔力も、時には周囲の空間そのものさえ容易く崩してしまう。
その対価として得た報酬が、目の前に積み上がった金貨だった。
「……こんなに強い魔物まで倒せるのに」
ギシ、と軋むベッドの端に腰を下ろし、ネロはギルドプレートを見つめる。
「どうして僕は、まだLv.0なんだろう……」
膝の上へ置いた使い古しの横笛を手に取り、傷だらけの管体を丁寧に布で拭っていく。
以前であれば到底一人では敵わなかった魔物を、今の自分は倒せている。
それなのにレベルは一つも上がらず、筋力や魔力にも変化がない。
そもそも、もっと根本的な疑問があった。
自分が本当に[選ばれし勇者]だったというのなら、どうして今まで誰一人としてそれに気づかなかったのだろう。
「……やっぱり、おかしいよな」
ぽつりと漏らした、その時だった。
部屋の空気がふわりと揺らぎ、芳醇な百合の香りが漂ってくる。
夕暮れの光が差し込む部屋の片隅で、黄金と白銀の燐光が螺旋を描きながら立ち上った。
光の粒子が収束した中心から音もなく姿を現したのは、完璧な美貌を湛えた少女――女神モヒーニカだった。
「随分と難しい顔をしていますね、ネロ」
鈴を転がすような、清らかで甘美な声音が響く。
モヒーニカは音もなくネロの背後へ回り込み、華奢な腕をそっと彼の首元へ滑らせた。
触れられた首筋に、肉体の重みも皮膚の温もりもない。
ただ、冷え切った魂の奥底へ直接染み込んでくるような、甘く蕩ける神気だけが身体を通り抜けていく。
以前、宿の主人が部屋へ酒瓶を運んできた時にも、モヒーニカはネロのすぐ傍らに立っていた。
それにもかかわらず、主人は彼女の存在を完全に素通りしていた。
姿を見ることも、その声を聞くこともできないらしい。
『私には今、触れられる肉体がありません。……かつて魔界「クル国」の魔王と対峙した際、奴の卑劣な闇によって神核を傷つけられ、実体を奪われてしまったのです』
荒野で悲しげに藍色の瞳を伏せ、そう語っていた彼女の横顔を、ネロは鮮明に覚えている。
世界中から無能と切り捨てられ、泥水に塗れて死にかけていた自分を、唯一見つけ出して肯定してくれた女神。
そんな彼女を今の姿へ追いやった魔界の支配者への憤りは、思い出すたびネロの胸を熱く焦がした。
「モヒーニカ……」
「どうしました?」
「一つ、聞いてもいい?」
モヒーニカはネロの肩越しから顔を覗き込み、柔らかな笑みを浮かべた。
「もちろんです。あなたが望むのであれば、何でも聞いてくださいな」
ネロは僅かに迷った後、手にしていたギルドプレートを彼女へ向ける。
「僕って、本当に[選ばれし勇者]なんだよね?」
「もちろんです」
モヒーニカは迷うことなく答えた。
「どうして、そのようなことを?」
「だって……」
ネロはプレートへ視線を戻す。
「七歳の時、僕も『神託の儀』を受けたんだ」
それは、この世界に生きる子供たちにとって人生を大きく左右する儀式だった。
生まれた時から持っているジョブに加え、原初の勇者の魂を受け継いだ者であれば、七歳の神託によって神の選定を受けた証――神紋が顕れる。
パラシュもそうだった。
幼い頃から[ウォリアー]として育っていた彼は、七歳の神託の儀で黄金の神紋を授かり、その日から[選ばれし勇者]として扱われるようになった。
「でも僕の時は、何も起こらなかった」
ネロは横笛を握る手へ、僅かに力を込める。
「分かったのは、僕が[バード]だってことだけだった。神紋も出なかったし、誰からも僕が[選ばれし勇者]だなんて言われなかった」
その結果、自分は長い間ただの[バード]として生きてきた。
しかもレベルは、生まれてから一度たりとも上がらない『0』。
周囲の誰も、そんな少年が原初の勇者の魂を受け継いでいるなどとは考えなかった。
「もし僕が本当に[選ばれし勇者]だったなら……七歳の時に分かったはずじゃないの?」
モヒーニカの藍色の瞳が、ほんの僅かに細められた。
すぐには答えない。
やがて彼女は、遠い過去の悲劇を思い出したかのように静かに目を伏せた。
「……それには、理由があるのです」
「理由?」
「遥かな昔、まだ人間と魔族の争いが今より遥かに激しかった時代。かつて[選ばれし勇者]として生きた者は、魔族や魔王たちとの長い戦いによって、あまりにも深い傷を負いました」
「勇者が……?」
ネロが息を呑む。
モヒーニカは悲しげな表情のまま、ゆっくりと頷いた。
「肉体だけではありません。幾度もの激戦の果てに、その勇者は魂そのものへ、砕けかねないほど深刻な傷を受けてしまったのです」
「魂に……傷……」
「肉体の傷ならば、死と転生によって失われます。ですが魂そのものへ刻まれた傷は、そう簡単には消えません」
モヒーニカはネロの隣へ腰を下ろすと、透き通るような指先を彼の胸元へそっと重ねる。
「その傷はあまりにも深く、バードの勇者は長い間、再び人として生まれることさえできなかったのです」
「だから……ずっと新しいバードの勇者が現れなかったの?」
「ええ」
モヒーニカは静かに頷いた。
「勇者の転生者を失った国がやがて衰退し、滅亡へ至ったことは、あなたも知っているでしょう?」
ネロの脳裏へ、王都グラン・アルカの城門へ刻まれていた十人の原初の勇者たちの姿が蘇る。
その中でも、すでに後継者が途絶えたと伝えられていた三つの系譜。
プリースト。
パラディン。
そして、バード。
「長い年月を経て、傷ついた魂はようやく再び人の器へ宿るところまで回復しました」
モヒーニカの藍色の瞳が、真っ直ぐネロを見つめる。
「それが、あなたなのですよ」
「僕が……」
思わず、自分の胸元へ手を当てる。
「でも……僕はずっと弱かった」
「それも当然なのです」
モヒーニカは責めるどころか、幼い子供を慰めるように優しく首を振った。
「転生できるまで回復したからといって、かつて負った傷まですべて癒えたわけではありません。全盛期の勇者と比べれば、あなたの中へ受け継がれた力はあまりにも弱く、不完全な状態でした」
「だから、神託の儀でも……?」
「ええ。七歳の頃のあなたに宿っていた勇者の力は、神紋として表へ顕れるほど強くありませんでした」
モヒーニカの白い指が、ネロの胸元を優しく撫でる。
「神託の儀とて万能ではありません。魂の奥深くへ眠り、現世へほとんど顕れていないものまで、必ずしも完全に読み取れるわけではないのです」
その説明を聞いて、ネロは小さく息を呑んだ。
「じゃあ……荒野でモヒーニカがしてくれたことは……?」
「あなたへ、存在しなかった力を新しく与えたわけではありません」
モヒーニカは慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「深く傷つき、眠り続けていた勇者の魂へ私の神気を注ぎ、失われた部分を補ったのです。そして本来あなたが持っていた力を、もう一度この世界へ顕せるよう整えて差し上げました」
「本来の……僕の力……」
その言葉に、荒野で初めてブラッドハウンド・キメラへ笛を向けた時の感覚が蘇る。
初めて奏でる旋律だった。
誰かから教えられた術でもなかった。
それなのに、どの音を重ねればいいのか、何へ干渉すればいいのか、指が勝手に知っているような感覚があった。
「だから、あの時……」
ネロは膝の上の横笛を見つめる。
「初めて使った力なのに、どう吹けばいいのか分かったのかな」
「ええ」
モヒーニカは、さも当然のことのように答えた。
「あなたの魂が、覚えていたのでしょう」
不思議なほど、その説明には説得力があった。
自分の中に最初から存在していたものを、ただ思い出しただけ。
そう考えれば、荒野で抱いた奇妙な懐かしさにも説明がつく。
だが、ネロにはまだ一つだけ、大きな疑問が残っていた。
「……でも、それなら」
「どうしました?」
「どうして僕は、まだLv.0なの?」




