第6話 新しい力
芳醇な百合の香りと、すべてを受け入れてもらえたかのような安らぎが、ネロの意識を心地よく包み込んでいく。
「あの者たちは愚かにも、あなたの真の価値を理解できなかった。ですが、悲しむことはありません。私の愛は、常にあなたと共にあります」
「僕の……価値……?」
「ええ。さあ、立ち上がりなさい」
モヒーニカはネロの手を取ると、その手に握られていた木製の横笛を包み込むように、自らの白い指を重ねた。
「あなたには、この世界を神の調和で満たすための『特別な役割』があるのです。あの愚かな者たちを恨む必要はありません。ただ私の声に従い、世界の汚れを祓う刃となりなさい」
その瞬間、ネロの内側で何かが決定的に変質した。
胸の奥で甘く昏い熱の塊が弾け、不可視の神聖な力が魂の器を押し広げながら、その在り方そのものを書き換えていく。
視界の端では、ステータスを示す法則そのものが歪み、見えざる銘が刻み込まれた。
【ジョブ:選ばれし勇者】
レベルは依然として『0』のまま。
筋力や魔力の数値も、一切表示されていない。
だが、その瞬間からネロの耳へ届く世界のすべてが変わった。
雨粒が大地を打つ音、吹き荒れる風の唸り、魔獣たちの荒い呼吸。
筋肉が収縮し、骨が軋み、体内を魔力が巡っていく微かな振動さえも、これまでとはまるで違う鮮明さで聞き分けることができる。
それまで雑多な音の塊にしか聞こえなかった世界が、一つ一つ異なる「音律」としてネロの中へ流れ込んでいた。
「パラシュと同じ……選ばれし勇者……?僕が!?」
そして同時に、理解する。
[選ばれし勇者]に与えられた力は、決められた旋律をただ奏でるだけのものではない。
目の前の存在が発する音、大気を巡る魔力、そして自らの意思。
そのすべてを瞬時に読み取り、組み合わせ、その場、その瞬間に必要となる「調律」を即興で組み上げる。
守りたいと願えば、音は盾となる。
癒やしたいと願えば、音は生命の流れを整える。
敵を穿ちたいと願えば、音は刃へ姿を変える。
あらかじめ与えられた技を選び取るのではなく、ネロ自身が奏でた音律そのものが、その瞬間に新たな術式となるのだ。
「……分かる」
ネロは、自らの手の中にある横笛を見つめた。
「どう吹けばいいのか……何を響かせればいいのか……全部、分かる……」
それは知識として教え込まれたものではなかった。
まるで、ずっと昔から知っていた旋律を思い出したかのように、次に奏でるべき音が魂の奥底から自然と湧き上がってくる。
その身に宿ったのは、世界の理へ音を介して干渉し、状況に応じた術式を自在に紡ぎ上げる――神の息吹を帯びた、規格外の権能だった。
「私の選んだ勇者よ。あなたの音色で、不調和な獣たちを安らかに眠らせてあげなさい」
モヒーニカが静かに身を引いた。
次の瞬間、止まっていた世界の歯車が爆発的な勢いで再び回転を始める。
ザァァァァッ!!
豪雨の音が一斉に鼓膜へ戻ってきた。
空中で静止していたブラッドハウンド・キメラも再び動き出し、剥き出しの牙を鳴らしながらネロへ殺到する。
だが、先ほどまで死そのものにしか見えなかった魔獣たちは、今のネロにはまるで別の存在のように映っていた。
「……『ステータス・オープン』」
ネロが反射的に呟く。
その言葉へ応じるように、最前列を駆けてくるブラッドハウンド・キメラの周囲へ淡い光が集まり、虚空へ半透明の文字列が浮かび上がった。
【個体識別:ブラッドハウンド・キメラ】
・Lv.24 ジョブ[魔獣・血牙種]
・筋力:186/魔力:92
・主要スキル:【強酸牙】【血臭追跡】【群体連携】
・特記事項:災害種眷属/強酸性体液
「レベル……24……」
ネロは思わず息を呑んだ。
自分はLv.0。
それに対して、目の前の魔獣はたった一頭だけでもLv.24。その後方にも同程度と思われる個体が何頭も控え、互いに連携しながらネロを包囲しようとしている。
これまで自分が信じてきた常識だけで考えるのなら、到底戦いになどならない相手だった。
だが、不思議なことにネロの身体は震えていなかった。
表示されている数字よりも遥かに鮮明に、今の彼には魔獣そのものを構成している無数の「音」が聞こえている。
地面を蹴る四肢の筋肉が収縮する振動。
重量を受け止める骨格へ伝わる衝撃。
肺から吐き出される荒い呼吸と、牙の根元へ強酸性の体液を送り込む魔力の流れ。
さらには、群れの個体同士が互いの位置を把握しながら動く、その僅かな呼吸のずれまで。
ステータスに並ぶ数字だけを見れば、Lv.0の自分が勝てるはずなどない。
それでもネロには、強大な魔獣たちを構成するすべての音が、隙だらけの不協和音として聞こえていた。
(……分かる)
どの音へ干渉すれば、四肢の動きが乱れるのか。
どの波長をずらせば、体内を巡る魔力が正常な流れを失うのか。
そして、どこへ自分の音を重ねれば、この群れそのものを一度に崩すことができるのか。
そのすべてが、今のネロには手に取るように理解できた。
恐怖は、もう消えていた。
ネロは導かれるように、神気を帯びてほのかに黄金色へ発光する木製の横笛を唇へ当てる。
今まで一度も奏でたことのない旋律。
誰かから教えられたわけでもない術式。
それでも、指は迷わなかった。
荒れ狂う風雨、迫り来る魔獣たち、その呼吸、鼓動、筋肉、骨格、体内を巡る魔力。
無数の音を一つの譜面として捉え、ネロはその場で必要となる音律を直感のまま組み上げていった。
深く息を吸い込み、横笛へ吹き込む。
奏でられたのは、かつて仲間たちを支えるために紡いでいた優しい調律とはまるで異なるものだった。
大気を伝う音波と、その内部を走る微細な振動。
魔力の流れへ干渉する波長。
そして空間そのものへ食い込み、目の前の不協和音を強制的に断ち切る神威の律動。
即興で組み上げられた旋律へ、ネロの魂が一つの名を与えた。
【断絶の絶唱】
キィィィィィン――……!!
鋭く澄み切った高音とともに、不可視の音波が同心円状に空間を歪めながら荒野を薙ぎ払った。
ドォォォォォンッ!!
空中から飛びかかっていたキメラの巨躯が、見えない巨人の拳で叩き潰されたかのように、断末魔すら上げる暇もなく真下の大地へ叩きつけられる。
強靭な骨格が粉砕され、硬質な筋肉は内部から襲いかかった強烈な振動によって一斉に破裂した。
地上から迫っていた群れの魔獣たちも例外ではない。
音波が通過した瞬間、周囲数十メートルの大地そのものがすり鉢状に陥没し、群れを成していたキメラたちは一瞬にして肉片と血煙へ変わった。
赤黒い飛沫が豪雨へ呑み込まれ、激しい雨に洗い流されていく。
やがて轟音の余韻が消えると、荒野へ奇妙な静けさが戻ってきた。
そこに残されているのは、綺麗な円形に抉り取られた大地と、その中心で血の一滴すら浴びることなく立ち尽くすネロの姿だけだった。
ほんの少し前まで、自分はあの魔獣たちを前にして死を覚悟していた。
Lv.24。
それはLv.0の自分とは、本来比較にすらならないほど大きな隔たりを示す数字のはずだった。
にもかかわらず、その魔獣たちはたった一度の旋律によって跡形もなく消し飛んでいる。
「これが……僕の、力……?」
ネロは、自らの手の中にある木製の横笛を見つめた。
指先が僅かに震えている。
自分が何をしたのか理解できているはずなのに、その結果だけが、これまで信じてきた世界の常識からあまりにも大きく外れていた。
そんなネロの背後では、女神モヒーニカが完璧な笑みを浮かべていた。
慈愛に満ちた藍色の双眸が、規格外の力へ目覚めた少年の背中を、静かに見つめ続けていた。




