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第5話 女神モヒーニカ

冷たい鉛色の雲が天を覆い尽くし、横殴りの風雨が容赦なく荒野を叩いていた。


王都グラン・アルカの白亜の城門を背にしてから、どれほどの時が流れたのか。


ネロの足取りは鉛のように重く、未開拓の荒野「灰降る枯れ谷」の泥濘に足を取られるたび、冷え切った飛沫がぼろぼろの衣服へ染み込んでいく。

手元に残されているのは、仲間に投げつけられた冷たい銀貨ではない。


胸元へ抱きしめ続けた、使い古された素朴な木製の横笛ただ一本だった。


肺腑を刺すような冷気と、仲間たちから突きつけられた無情な拒絶の言葉が、鋭利な刃となってネロの内側を抉り続けている。


(……僕がやってきたことは、本当に全部、邪魔なノイズでしかなかったのか……?)


ステータス鑑定水晶が下した冷酷な判定――『レベル0』。


筋力も魔力も、測定不能の極小値。


仲間たちの息遣いを拾い、魔力の波長を重ね合わせ、致命的な歪みを整えていたあの時間さえ、すべて自分の身勝手な思い込みに過ぎなかったのだろうか。


支えていたつもりで、実際には自分こそが庇われ、足を引っ張るだけの寄生虫だったのかもしれない。


そんな底なしの自己否定が泥水のように胸を満たし、ただでさえ失われていた体温をさらに奪っていく。


もはや手足の感覚はほとんど麻痺し、視界も雨と涙によって白く霞んでいた。


グチャリ、と重い泥を踏みしだく異音が、荒れ狂う雨音の隙間から聞こえてきた。


「……っ」


ネロは息を呑み、その場で身体を硬直させる。


雨煙の向こう側、風化した岩陰から滑り出るように現れたのは、数頭の異形の肉食魔獣――災害種の眷属たる「ブラッドハウンド・キメラ」の群れだった。


爛々と血の色に発光する複数の眼球。


針金のように硬質な剛毛を逆立て、剥き出しの牙からは、大地をジュクジュクと溶かす強酸性の唾液が垂れ落ちている。


王都の防壁の内側では決して目にすることのない、剥き出しの野生と濃密な殺意。


衰弱したネロを取り囲むように、魔獣たちは低く唸りながら少しずつ包囲を狭めていった。


「ぁ……」


恐怖で喉が引き攣れる。


震える指先で、ネロは本能的に木製の横笛を唇へ運んだ。


凍える呼気を吹き込み、必死に調律の旋律を紡ごうとする。


ピィ――……


しかし、辛うじて立ち上がった音色は荒れ狂う嵐と魔獣たちの低い唸り声へ呑み込まれ、虚しく霧散していった。


これまでネロが奏でてきた音楽は、仲間たちの動きや魔力を読み取り、それらを整えることで初めて力を発揮するものだった。


攻撃を受け止めてくれる大盾も、敵の意識を逸らす短剣も、強大な魔術を放つ詠唱者も、今は誰一人としてここにはいない。


この孤独な荒野で、ネロの笛は何一つ守ることのできない、ただの音でしかなかった。


グルルァッ!


先頭にいた巨躯が泥を蹴った。


鋼のような筋肉が大きく撓み、ネロの無防備な喉笛を一息に噛み千切るべく、巨大な影が頭上から覆い被さってくる。


逃げようと後ろへ引いた足が泥濘へ取られ、ネロの身体は無様に仰向けへ倒れ込んだ。


眼前へ迫るのは、酸の滴る無数の牙と、生肉を引き裂くための血塗られた顎門だった。


(ああ……僕の人生は、ここで終わるんだ……)


ネロは死を覚悟した。


壊れ物を守るように横笛を胸元へ抱き込み、固く目を閉じる。


暗転した視界の奥で、記憶の奔流――走馬灯が鮮やかに蘇った。


それは、貧しくも陽光に満ちていた故郷での日々だった。


ステータス鑑定によって『レベル0』の無能と宣告され、大人たちや周囲の子供たちから「寄生虫」「穀潰し」と罵られ、石を投げつけられていた幼い頃の自分。


そんなネロの前へ傷だらけの大戦斧を構えて立ちはだかってくれたのは、幼馴染のパラシュだった。


『おい、ネロを馬鹿にするな! 数値が何だ! こいつの笛は、俺たちの心を震わせて力をくれるんだ! 俺が絶対に守る。文句があるなら俺を倒してからにしろ!』


泣きじゃくるネロの手を引き、不器用な笑顔で頭を撫でてくれたパラシュ。


旅へ出て仲間が増えてからも、その温もりは変わらなかった。


酒場で他の冒険者たちから嘲笑された夜にも、仲間たちはいつもネロの味方だった。


『おいおい、なんでレベル0の雑魚を前線に連れて歩いてるんだ?』


ドミニクは冷ややかな目で相手のグラスを氷漬けにすると、侮蔑を隠さず言い放った。


『無知ですね。彼の旋律による魔力補正がどれほど精緻か、貴方のような三流には理解できないでしょう』


バクも太い腕でネロの肩を抱き寄せ、豪快に笑い飛ばしてくれた。


『俺が盾を支えきれるのは、ネロが呼吸を合わせてくれてるからだ。文句をつけるなら、この盾を割ってみろ』


カクスは静かに祈りを捧げながらも、毅然とした声音でネロを庇った。


『神の恩寵は、数字の多寡にのみ宿るにあらず。ネロの音色は、我らの魂を繋ぐ絆です』


リクトも飄々と肩をすくめながら、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


『ネロの音がないと、僕のステップが狂っちゃうんだよね』


あの頃は、本当に温かかった。


互いを信じ、誰かが傷つけば当たり前のように手を差し伸べる仲間だったはずだ。


それなのに、いつから彼らはあんな氷のような目をするようになったのだろう。


どうして自分を、路傍の石屑のように捨て去ってしまったのか。


(……温かかったみんなには、もう二度と会えないんだな……)


絶望と切なさが胸を灼き尽くそうとした、その刹那。


激しく大地を叩いていた雨音が、何の前触れもなく消え失せた。


吹き荒れていた突風も、魔獣の耳を劈く咆哮も、すべてが深海の底へ沈んだかのような静寂へ呑み込まれていく。


いつまで待っても痛みが訪れないことを不審に思い、ネロはおずおずと瞼を開いた。


「……え……?」


世界そのものが、完全に静止していた。


空から降り注いでいた無数の雨粒は、透明な宝石のように宙へ留まったまま動かない。


喉笛へ飛びかかっていたキメラの巨躯も、牙を剥き出しにした姿勢のまま一寸たりとも動かず、空中へ固定されていた。


強酸性の唾液すら、重力という法則を忘れたかのように静止している。


そして鉛色の雲を両断し、天から射し込んできたのは、息を呑むほど神聖で清廉な黄金と白銀の燐光だった。


光の奔流が螺旋を描きながら荒野の大地へ収束していく。


その中心から、重力すら忘れたように一人の少女が音もなく舞い降りた。


年齢は十四、五歳ほどに見える。


光の角度によって白銀から眩い黄金へ移ろう、絹糸よりも細やかな長い髪。


透き通るように白く、いかなる泥汚れも寄せつけない滑らかな肌。


神の手によって彫り出された芸術品のように、一切の瑕疵を感じさせない完璧な美貌。


そしてその双眸は、どこまでも深く澄み渡った藍色でありながら、星々の巡りさえ呑み込むような底知れぬ深淵を湛えていた。


「モヒーニカ……」


なぜかその名が、誰かに教えられたわけでもないのに、ネロの脳裏へ直接浮かび上がった。


少女――女神モヒーニカは、泥水に塗れて倒れ伏すネロの前へ歩み寄る。


汚れを意に介する様子もなく静かに膝をつくと、雪のように白く柔らかな指先を伸ばし、ネロの冷え切った頬へそっと触れた。


その瞬間、甘美なまでの神気が奔流となってネロの肉体へ流れ込んできた。


凍りついていた四肢の末端までが一瞬で熱を取り戻し、すり減り、張り詰めていた精神の痛みまでが、初春の陽光を浴びた残雪のように急速に融けていく。


「可哀想に……よくここまで耐えましたね、愛しい我が子よ」


鈴を転がすような、清らかでどこかあどけなさを残した、あまりにも甘やかな声音だった。


「あ……ぁ……」


仲間から無能と切り捨てられ、寄生虫と罵倒され、世界のすべてから存在価値を否定されたばかりのネロにとって、その言葉は魂の奥底まで染み渡る救済そのものだった。

堪えきれなくなった大粒の涙が瞳から溢れ、泥に汚れた頬を伝って落ちていく。


モヒーニカは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、その涙を愛おしそうに指先で拭った。


「あなたの流した涙も、その笛が奏でてきた優しい音色も、私はすべて見ていましたよ」


モヒーニカはネロの頭を優しく抱き寄せ、自らの胸元へ引き寄せた。

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