第4話 追放
「……宿へ戻るぞ」
短く落とされたその声には、周囲への怒りも、ネロへの庇い立ても含まれていなかった。
ただ冷たい静寂だけを引き連れ、一行はギルド「白銀の天秤」を後にした。
王都の裏通りに佇む、石造りの宿屋の一室。
暖炉の火だけが爆ぜる薄暗い部屋に、重苦しい沈黙が満ちていた。
街道での討伐を終え、Sランク昇格試験を受ける為の手続きを済ませたはずのパーティ「暁の刃」の空気は、祝勝のそれとは程遠い。
装備を下ろしたパラシュが、部屋の中央でゆっくりとネロへ向き直った。
腐敗貴族を睨みつけたときの苛烈な殺気とは対照的に、ネロを見下ろすパラシュの双眸は、感情のすべてが削ぎ落とされたかのように冷たく凪いでいる。
「ネロ。お前をこのパーティから除名する」
張り詰めた空気の中、乾いた宣告が落ちた。
「……え?」
ネロの口から、掠れた声が漏れた。
「パラシュ……? 何を、言って……」
「言葉通りの意味だ」
パラシュは眉一つ動かさず、淡々と、しかし研ぎ澄まされた刃のように言葉を重ねる。
「俺たちは間もなく正式にSランクへ昇格し、神託に従って魔界『クル国』の魔族本拠地へと討ち入る。あそこは生半可な力では、塵すら残らない死地だ」
「で、でも、僕だって笛でみんなの呼吸を合わせたり、魔力のロスを減らして――」
「俺はあの肥え太った貴族の指図を受けず、自らの力でこの世界を平定する」
パラシュはネロの必死な訴えを遮り、冷徹に言い切った。
次の瞬間、小さな革袋が床へ叩きつけられた。
チャリン、と鈍い金属音が響く。
ほどけた口からこぼれ落ちた数枚の銀貨が、冷たい光を放ちながらネロの靴先へと転がってきた。
視界が激しく揺らぎ、肺の奥が凍りついたように息が詰まる。
突き放された痛み以上にネロの胸を刺し貫いたのは、深い絶望だった。
目の前で自分を見下ろすパラシュの瞳――かつて熱い篝火のように揺らめいていたその瞳から、自分たちを結んでいたはずの温かな光が、塵芥すら残さず削ぎ落とされていた。
脳裏を灼くのは、まだ泥水をすするような最底辺を這い回っていた、駆け出しの頃の記憶だ。
ステータスなど誰も気にも留めず、ボロボロの革鎧をまとい、安酒場で硬い黒パンを分け合っていたあの日々。
魔物に吹き飛ばされて動けなくなったネロのもとへ、誰よりも先に駆け寄り、肩を抱き起こしてくれたのはパラシュだった。
口数は少なく不器用で、擦り傷だらけの手で大戦斧を構え直し、無骨に笑った戦友。
「俺の後ろから離れるな。お前の笛は、俺が絶対に守る」
貴族の横暴に震える路地裏の孤児たちを見かねては、自らの血で稼いだわずかな報酬を、名前すら名乗らず黙って差し出していたあの優しい少年。
そのすべてが、今、目の前に立つ氷の彫像のような男のどこにも見当たらない。
「……嘘だろ、パラシュ」
震える唇から、掠れた声が漏れ出た。
ネロはすがるように、革の手甲で覆われたパラシュの太い腕へと両手を伸ばした。
「思い出してくれよ! ドミニクが初めて極大魔術を使った夜、暴走しかけた魔力回路を僕が笛で調律して抑え込んだじゃないか! バクの盾の術式が砕けかけた時だって、僕が敵の打撃の波長を読んで息を合わせたから耐え切れたんだ! 僕たちは……そうやって六人で、泥だらけになってここまで来たんじゃないか……っ!」
必死に紡がれる叫び。
仲間の名を呼び、縋るように視線を巡らせる。
だが、伸ばされたネロの指先がパラシュに触れる直前――空間が爆ぜた。
「黙れッ――!!!!」
激しい怒号とともに、パラシュの腕が無慈悲に薙ぎ払われた。
バチバチと耳を劈く蒼白い雷光が全身から狂乱のように噴き上がり、強烈な衝撃波がネロの身体を部屋の壁際へと突き飛ばす。
衝撃で宿の木製家具が激しく軋み、窓枠がビリビリと悲鳴を上げた。
パラシュの顔には、かつての友に対する慈しみも、迷いも、葛藤の影すら浮かんでいなかった。
そこに刻まれているのは、絶対神『童子』の神紋によって研ぎ澄まされ、異物を排除するためだけに純化された、絶対秩序への冷徹な狂気。
「過去の感傷に浸るような甘さに、この世界では一片の価値もない! 俺たちが目指す神の領域に、貴様のような『ゼロ』の不純物を連れて行けると思うのか!」
パラシュの手が大戦斧の柄へと掛けられ、刃先から立ち上る雷気が床板をジリジリと焦がす。
「これ以上醜態を晒すなら、この場で叩き斬るぞ。失せろ、ネロ。二度と俺の前にその無能なツラを見せるな!」
ネロは床に手をついたまま、息を呑んで仲間たちを見上げた。
ドミニクは軽蔑を隠そうともせず、フン、と短く鼻を鳴らして計算用紙へ視線を落とす。
バクは組んだ太い腕を解くこともなく、煩わしそうに壁の染みへと目を逸らしていた。
神官カクスに至っては、胸の前で静かに聖印を掲げ、感情の通わぬ無機質な瞳で憐憫の祈りを呟くだけだった。
「神の定めた器に従えぬ、哀れな迷い子よ……」
寒気が背筋を駆け上がった。
自分が信じ、愛し、背中を預け合ってきたはずの「仲間たち」という存在の輪郭が、中身ごと冷酷な異物へとすり替えられてしまっている。
その底知れぬ狂気と完全な孤立を前に、ネロの喉は引き攣れ、もはや言葉を紡ぐことすらできなかった。
「……あ、あ……」
立ち上がろうとしても、足が震えて膝に力が入らない。
涙がぼろぼろと溢れ出し、薄暗い床の木目を滲ませていく。
宿の扉が乱暴に開け放たれ、ネロは夜の闇へと押し出されるように部屋から追い出された。
足元に転がる銀貨の存在すら、もはや目に入っていなかった。
よろめく足取りで宿の階段を下り、階下の酒場を抜けて、冷え切った裏通りへと転がり出る。
その背後から、仕事を終えて宿の酒場に立ち寄っていたギルドの受付嬢たちの、冷ややかな話し声が夜風に乗って耳に届いた。
「ふん、見苦しいわね。身の程知らずが無駄に騒ぎ立てて……まるで伝承のあの男そっくりじゃない」
比較的古参の受付嬢が、退屈そうに金糸の髪を指先で弄びながら嘲笑を漏らす。
隣に並ぶ同僚の少女が、思い出したように小さく頷いた。
「ああ、いたわね……『神の教えは偽りだ』だの『この世界は狂っている』だの、わけのわからない妄言を撒き散らして異端認定された、あの嘘つきプリーストのことね」
「確か名前は……まあいいわ。どうせ神託に逆らって自分が治めていた都を追放されて、外の荒野で野垂れ死んだんでしょうし。あの愚か者と同じ末路を辿るのがお似合いよ」
嘲笑のさざ波が、ネロの背中を突き刺す。
ネロはただ、胸ポケットから滑り落ちそうになった素朴な木製の横笛を両手で強く握りしめた。
まるで最後に残された壊れ物を守るように胸へと抱きしめ、そのまま夜の闇が広がる王都の路地へ、あてもなく駆け出していった。




