88 残り香 - 2 -
よろしくお願いいたします。
とんとん、と。
不意に鳴った扉のノック音に文字通り身体が跳ねた。同時にぱっと梓が離れていく。そうしてこちらに向かって笑みを一つ落とすと、熱の冷めないこちらを置いてふわりと扉の方へと飛んでいった。かちゃりと、軽やかに立てる扉の開く音がまるで断頭台の上で弾ける水滴のようにさえ聞こえ。慌てて手にしたままだった陶器を懐へと戻す。
「……――だから応用が利くと思ってな、」
「なるほど、試してみる価値があると……ああ、梓さん、おはようございます」
「みなさんもおはようございますー」
聞こえてくるのは不遜な男の声と、柔らかな男の声。どくりと、心臓が信じられないくらい強く音を立てる。今一番顔を見たくない相手なのに、思わず目をやってしまっていた。視界に飛び込んでくるのは長く柔らかな金の髪を揺らした二人の男、青い瞳と赤い瞳の熾天使二人組。メタトロンの名を持つヨシュアと、この世界では強い意味を持つ銀の髪を金に変えたサンダルフォン。そして、――ヨシュアの腕を掴んで離さない、低級天使の白い小娘。神の眷属ども。
「オリビアさまのお使い、渡せました?」
「ええ、すみません、少し話し込んでしまって……」
梓とヨシュアの会話を聞き流しながら、強く舌打ちをして顔を背ける。乱れ果てた感情はすぐには落ち着かない、今はその顔を見たくなければ声も聞きたくなかった。思考は煩雑でまともに形作られない、梓が。ありえない話ばかりをしたからだ。だから、距離を取りたいのに。それなのに、目ざとい天使はそれを赦しはしなかった。小娘に手を離すように言い置いて、こちらへと近づいてくる。静かな足音、身構えるものの窓の側で座り込んでいては逃げ場もなく。男を見ないよう目を逸らしたままでいるのだが、ヨシュアは実に自然にこちらの前で膝をついた。白いのと銀色の纏う空気が一気に殺気立つ。
「昨日は眠れませんでしたか?」
向けられるのはただただ優しい声、だ。男にとって息をするかのような自然な気遣いに、こいつなら誰にでもそうするであろうそれに、いっそ異常なまでにざわつく胸の内が不快だった。
白と銀の、隠す気さえないその不穏な空気に気付いていないはずがないだろうに。木偶の坊はこちらへといつもと変わらない声色で話しかけてくる。そう――変わらない、何も。いつも通り。優しい声、甘く香るような穏やかな物言い。男の顔が見られないまま、こちらも平静を装いながら突き放すように息をつく。
「――別に、」
「ですが、顔色が悪いですよ」
「放っておけ」
「そういうわけにはいかないでしょう」
呆れたように、けれど男はなおも食い下がる。
そうして、おや、と。極々小さな声を僅かに零した。そうして続いた、ふふ、と零れた嬉しそうな声が非常にいたたまれない。先程つけた香りに気付いたのだろう、ああ、ああ、やはり止めておけばよかった。思った所で今更どうなるものでもない。……にやにやと、傍で含み笑いをしている梓を睨みつけるのだが、強かな人間の娘はしかしものともせずにいる。
「私はこれからお祭りの片付けと清掃に向かいます」
ヨシュアはと言えば勝手に今後の行動予定を語りだした。
「……好きにすればいい、私には関係ない」
「そうおっしゃらず。体調に問題ないというのならどうぞご一緒に」
構うなと突き放すのに男はどこまでも強引である。
さあ、と差し出された手をはたき落とした。こちらとしてみれば冗談ではないのだが、男は困ったように眉を下げるばかりでどうにも諦める様子がない。それまで黙っていた銀色の天使が、はっと。吐き捨てるように笑った。
「悪魔が善行など積むはずがないだろう」
「そのようなことはありませんよ、ね?」
……何が「ね?」だ。ふざけやがって。しつこい男にイライラしながら睨みつけるのだが、ヨシュアの態度はまるで変わらない。いつものように穏やかに微笑んだまま、「そうすることが正しいと判断した」清掃とやらを行うと決めたらしい。まるで何事もなかったようにいつも通り。――いや、男にとっては一連の出来事など大したことではなかったのかもしれない。大天使さまにとっては些末な問題でしかなかったのだろう。贖罪の為に、魔王の監視の為に、傍にいることを強要しているに過ぎない。
く、と。知らず口元が歪んだのは一体いかなる感情であったのだろう。
ここまで酷く掻き乱されているのも、動揺しているのも、こちらだけということだ。火照る肌が、ざわつく胸の内が、急激に冷えていく感覚。
「…………しつこい、関わるなと言っている」
何もなかったのだ。男にとって、大したことではなかった。
改めて突きつけられる、男の行動原理。当たり前のこと。それが必要だから。正しい事だから。元の世界へ戻る為の協力者だから。傷付けた事に対する贖罪だから。
どれも理屈と義務であって、意志ではない。
「ですが、私は貴女の傍にいると約束をしました」
静かな声だ、それが正しいと信じて疑わない声。
清らかな天使、約束、正邪。天使の行動に心情は付随しない。正しいと判断したこと、心はいつだって置いてけぼりだ。好き勝手な行動をした上でなおその行動に正当性を求める。それが、一体どれほどこちらの精神を削り取っていくのか考えたこともないのだろう。ぎり、と。唇を噛み締める。きつく睨みつければ、男は困惑したような表情を浮かべた。
「私は今霊力が使えません。貴女を守るために傍にいる事を、贖罪とさせてほしいと願い出ました。ですので、」
「貴様が勝手に言いだしたことだろうが!」
なおも世迷言を宣う男に向かって吠える。単なる理由を並べられたとて、そうですかと納得できるはずもなかった。散々拒絶してきたことを何故こうも繰り返す、建前、表向きの言い訳だからか。それが善であると疑わない男の物言いは酷く腹立たしいものだった。感情を斬り捨てた効率重視の物言いと変わらないそれで、満足できたならきっと。こんなにも痛む胸を知らずに済んだかもしれないのに。
「そうは、言いましても、」
まさか拒絶されるとは思ってもいなかったのだろう、驚いたように揺れる淡い色彩。わずかばかり震える声色はどこか哀れささえ感じさせる。最善を選んだつもりである男の言動、ただひたすらに正しさで図る男の哀れさ。滑稽さ。ヨシュアがここにきてもなお口にするのは単なる理屈だった。
「……お前はどこまでも木偶の坊でしかないのだな」
侮蔑の意味を多分に含めて言い放つのだが、ヨシュアは少しだけ目を瞬かせるに留まった。
「そう……かも、しれませんね」
そのくせ、そう言って男は困ったように小さく笑うのだった。寂しげに揺れる眼差しにしかし、何一つ伝わっていない事を知る。ざわつく肌の上、胸の内、苛立ちは容易く流されて激情へと変貌を遂げる。なにが「そうかもしれない」だ。侮蔑を受け入れる、徹底的な自罰感情。コミュニケーションなど、相対する他者がいてこそ初めて成り立つものである。それなのに、天使どものやり方は一方的なものでしかなかった。否応もなく押し付けてくる独善的なもの。そう、善である、義である、だがそれは、果てしなく自分勝手な自己満足でしかなかった。優しさ、慈しみ、けれど別にそれは、相手に寄り添うものではない。単なる方針。ただの行動理念。
「貴様は感情も己の思考すら放棄した神の傀儡でしかない」
怒気をにじませて吐き捨てるがしかし、男の反応はない。黙ったまま。
博愛、平等、慈しみ。優しくて暖かい。けれどそれは、ただ振りまかれるだけの祝福に過ぎないものだった。善意の安売りだ。大衆に向けて大盤振る舞いされた正しい善意など、一体如何ほどの価値があるというのだろう。
「悪魔、黙っていれば、」
「リーネン」
「んあ?」
銀色の天使は耐えられなかったのだろう。天使にあるまじき憎悪に震える声を無視して、床の上に転がっている配下の名を口にした。なんですかあ、面倒くさそうでさえあるオレンジを軽く小突いて告げる。
「不愉快だ、付き合え」
「ふにゃー」
もはや話すこともない。
会話を打ち切ってすっと立ち上がる、なおも不安定に揺れるヨシュアの眼差しはただ不快なだけだった。意味など何もない言葉に揺れて、乱されて、なんて愚か。なんて滑稽。天使と悪魔、最初から交わることなどないと知っていただろうに。一喜一憂するなど馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
銀と白とにはヨシュアが何か言い含めているのか、忌々しげにしてはいるもののこちらへと向けられる言動はなかった。肌を刺すばかりの殺意、飛びかからんばかりの態度。しんとした室内。だるそうに伸びをするリーネン、やはり黙ったままの梓。
背後で音もなく立ち上がるヨシュアの気配がする。何かを言いたそうにしているのはわかるが、結局黙ったまま。木偶であることを否定もしない。その程度でしかないのだと思えば、嘲笑よりも憐れみが勝る。型通りの天使、逸脱しない正義、善。
あの時、悪くないと言ったのは。そう言って笑ったのは。
別に、――大した意味など、なかったのだ。
皮膚の内側で氷のような炎が燃える。とぐろを巻いて荒れ狂う。叫び出したい衝動、焼けるような焦燥。
ヨシュアにとって、生きとし生けるものすべてすべからく取るに足りないものでしかないのだろう。だからこそ、遍く者に対し残酷なまでに優しくなれるのだ。
手を差し伸べた先、相手がどう感じるのか、どう受け取るのか、考えたこともないに違いない。だからこそどこまでも善意を振りかざして「贖罪のために悪魔を追って」「捕まえるために腕を取って抱き込み」「そうすることが良いと思ったから香水を選んだ」と臆面もなく口にできるのだ。何故そうしたのかと動機を聞いてもわからないと言う。逃げる。意味ありげなことばかり口にするくせに本心を頑なに喋らない天使。
「結局、貴様にとって他人など皆等しく塵芥でしかないのだ」
「違う、」
不意に上がる低い声の反論と共に、ぐ、と。手首を掴まれた。
背後から伸びる太い腕、大きな手のひら、硬い皮膚の感触。伝わる熱に、冷え切ったはずの肌が再び熱を持つ。粟立つような感覚に、ぎり、と。奥歯を噛み締めた。この期に及んで何を言い出すというのか。
「違う、違います、それは……」
「何が違うというんだ!」
振り払いたいのに、そんなにきつく握りしめられているわけでもないのに離れない。振り返って睨みつける、女のような顔をしていながら確かに男の手だ、頭一つは違う身長、見上げた先、どこか縋るような眼差しで見下されて、そのくせ何がしたいのかわからない。
「私、は、……」
震える声、それでもそこから先がない。続かない。落ちる沈黙、ふ、と。逸らされる視線。空が床の上に落ちて――違う、と。まるでうわ言のように再度呟かれた言葉は、ヨシュア自身ですら困惑しているような色と熱を孕んでいた。
嫌だとすら、言えない天使のその哀れさ。
「どうせ何も言えないんだろう」
突き放した物言いに、ぴくりと男の指が小さく跳ねた。――図星か。人形はどこまでも人形である。意志を持てば、それはもはや神の名のもとに行動する天使ではなくなるとでも信じているのだろうか。欲深い白い小娘、沸点の低い銀の天使、周囲にいる天使どもがこのザマであるというのに一体何を言っているのだろう。
清らかな天使、博愛、きっと、誰よりも神に愛された男。時折覗く深淵、それでもまごうことなく清廉である。儚く微笑んで、他者にひたすら尽くし献身する、真白く穢れなき魂。
なおも離れない男の手。じわりと伝わる手のひらの熱が、急激に冷えていく。青い瞳が流れるように床の上を揺蕩っていた。そうしてそれが、何かに怯えているかのようにそろそろと持ち上げられる。淡い空色が悲しげな色を含んだままこちらを捉える。震える唇が息苦しそうに息を吸う。掴まれた手首、男の指先に僅かに込められる力。
「……違う……貴女は、私を、……」
途切れた先に続いたのは声にならない声だった。すがるような音。まるで叱られた幼子のように、所在なく揺れる眼差しは果てしなく儚げ。飲み込まれたのであろう言葉は永遠に出口を失って彷徨う。感情。言葉。それでも全身から発せられるのは、こちらを捕らえて離さない目が訴えるのは。――見つけて、と。そう、確かに聞こえたような気がした。
「ダメ!」
突然、弾かれたように白い小娘が男の腕にしがみついた。びくりとヨシュアの身体が大きく跳ねる。
「ヨナ……?」
「ダメです、ダメ、悪魔の声に耳を傾けちゃ……、」
そう言いつつ、小娘の淡い色彩の瞳がぎりぎりとこちらを睨みつけてくる。燃えるように怒りに染まった表情で、男の言葉を遮るようにまくし立てる。
「あなたさまは特別な方、神に選ばれた御方! 皆があなた様を必要としているの! あなたさまのご帰還を心待ちにしているの! だから、だから約束を、忘れちゃダメなの……悪魔の言葉になんて惑わされちゃダメなの……ッ!」
必死になって男に向かって叫ぶその様子に、その剣幕に、唐突に理解する。
男は、ヨシュアは。
こうやって、ずっと縛られてきたのだ。
特別だと、神に選ばれたと、そう言って雁字搦めに。言葉を、心を、感情を取り上げられて「こうあるべき」だと。だから――だから。いつもわけの分からない物言いをしていたのか。あれが精一杯の感情の吐露だったのか。約束とは祈り、幸福はその祈りの外にある。その言葉の真意などわからない。明言を避けた抽象的な言葉は、一体どれほどの物が込められていたのだろう。
「…………ヨナ、大丈夫です。忘れてなどいませんよ」
感情的に喚く小娘をなだめる声に、柔らかく微笑む男に。全身が沸き立つような怒りを覚えた。どうして自分を縛り上げるその手に自ら身を任せるのだ。寄り添おうとするのだ。
こちらから離れもしない小娘の怒りに溢れた眼差し、憎悪、厭悪、それは、一体何に対してなのだろう。汚れなき魂を刈り取る悪魔に対する嫌悪か、それとも、ヨシュアに対して余計なことを言うなとでもいうあまりにも身勝手な言い分だろうか。選ばれた、神の意志、それは、それは。あまりにもヨシュア自身の意思をないがしろにしてはいないだろうか。
「それなら、それならいいんです……悪魔の甘言に惑わされてはなりません。悪魔は穢れ、排除すべきもの。あなたさまが心砕く必要など欠片もないのです、私たちの居場所は天界しかないのだから! だから、ね? 早く帰りましょう? 皆が、戻ってこられるのを心待ちにしているのだから……!」
小娘は安堵したような物言いをしながも、なおも言葉を連ねる。それこそが最上であると言わんばかりに。幸せであると言わんばかりに。
言動は誘導的。そうであれという願望、逃れられないように縛る呪いの言葉。
強く美しい天使、強大な力を持つ熾天使、天使どもの王。肩書などいくらでもあった、真白く清らかな存在、天使の中の天使、神に最も近い者。神に選ばれたというその言葉自体が、そのまま首に縄をかける響きに聞こえた。我を通す小娘、敵意を剥き出しにする低級天使、その姿はまるで、――まるで。ヨシュアの自我を、赦さないかのようにさえ聞こえた。
清らかであれ、と。
捧げられる形に整えられてきたのか。
祭壇の上に横たえられたまま、祝福を疑わない供物のように。
どうしてそこまで他者に尽くせるのか疑問だった。
天使ゆえの性質かと思えばそうでもない、性格的なものかと思っていた。相容れぬ存在、そういう真実清らかで無垢なる存在なのかと。でも、違った。違ったのだ。
全身が熱を帯びる。
湧き上がるのは焼き尽くさんばかりの積怒。
掴まれたままだったヨシュアの手を力任せに振り払う。あ、と離れる指、わずかに見開かれる男の眼差し。ヨシュアの思惑など知ったことではなかった、何故手首を掴まれていたのかさえ最早どうでもいい。衝動に突き動かされるまま、自由になった手を振りかぶる。
「貴様ら、が……ッ、」
ぱん、と乾いた音。
小娘のその白い頬を力いっぱい叩いていた。
自分よりも遥かに小さい体がよろめいて、ヨシュアを掴んでいた手が外れる。小娘が打たれた頬を押さえ、呆けたようにこちらを見た。それが、怒りに染まる。憎悪に表情が歪んで、やがて明確な殺意へと変わる。自分達こそが正しいと信じて疑わないその傲慢さに、反吐が出るほどの嫌悪。
「貴様らが! こいつをここまで追い詰めたんだろう……!」
喉の奥から迸る激情。
真実清らかな天使であると思う、真白い存在。
終始物腰穏やかな言動、儚げな印象を与える外見のくせに、融通が効かない頭の硬い天使。言葉で武装して、綺麗に覆われて見えない心。本心。さらけ出せないのは。隠す理由は。嘘つきだと言ったのは、虚構だと言ったのは。本心をさらけ出せないからか。感情を口にすることを躊躇うのは、それを禁じられてきたからなのか。
「ルーシェ、」
「貴様も貴様だ、なんで何も言わない!」
慌てたようにこちらの名を呼ぶ男の声を遮る。青い瞳が瞬いて、唇を震わせて、けれど結局、何を言うでもなく。ただ困ったように表情を歪めていた。それが更に腹の底で怒りを煮え滾らせる。
その、何もかも受け入れたように、諦めたかのような表情が気に入らない。気に食わない。そうであれと強要され、それに逆らうことすらしない男。ただ従うばかりの木偶の坊。意思なき人形。
「なによう! なにも、何も知らないくせに!」
ヨシュアが口を開くよりも先に白が叫んだ。
「私たちのこと、何も知らないくせに! 汚らわしい悪魔風情が口を挟まないで!」
「知った事か!」
頬を赤く腫らし、なおも自分達の正当性を主張しようとする小娘。天使。天界。理の違う別の種、道理も理念も何一つ知らない。知らないから、――それが、一体何だというのだ。
「だったら貴様らの一体誰が! こいつの本心を聞いたことがあるというんだ!」
感情も心も自分には必要がないと言って微笑んでいた男の、その顔が嫌だ。それが当然だと言わんばかりのその態度が嫌だ。そうさせるだけの何があったのか知らない、空の上の事情などこちらには関係がない。それでも、それでもどうしても嫌だった。儚く微笑む男の、その胸の内など知りようもない。ヨシュアは別に平気なのかもしれない、でも、平気だと言って、笑うのが耐えられなかった。作られた笑みだ。無理やり笑って、柔らかく微笑んで、自身のことなど一切構わないその態度がどうしても嫌だ。それが、〝強要されたもの〟であるのならなおさら。
「お前はどうしたいんだと、誰か一人でも聞いたことがあるのか……〝特別〟などと言って都合よく縛るな、好きだの何だの言うなら、そいつの口を塞ぐようなことをするな……ッ!」
ヨシュアはいつだって人のことばかりだ。
自分だって弱さを抱えているのに、それなのにいつだって膝を折って、自分ではない誰かの為に親身になって、優しく包み込む。誰にでも手を差し伸べる、それこそが正しいのだと信じて行動する。天界へ帰りたいのかと聞いた時さえ、ヨシュアは即答しなかった。義務と願望と言葉を濁して明言を避けた。この男の、声を。叫びを。誰が聞いたというのだろう。
室内が静まり返る。
ヨシュアの親友だという男も、嫁だという小娘も口を噤んだまま何も言わない。反駁すらない。違うのであれば違うと声高に叫ぶであろう二人が、どこか悲しげに、悔しそうに目を泳がせている。それが何よりの答えだった。
誰一人――本当に誰一人、考えたこともなかったのだろうか。
与えられるだけ与えられ、好きだの何だの豪語するくせに何一つ見ていなかったのか。この男の優しさにあぐらをかいて、随分な口を聞いていたのではないだろうか。それを、ヨシュアは一体どんな風に受け止めていたのだろうか――ぎり、と。奥歯を砕けんばかりに噛み締める。怒りで全身が震える。眼の前が赤く染まる。
「清らかな天使などと笑わせてくれる……とんだ無能者の巣窟ではないか。神の眷属などその程度でしかないのか、天使の底が知れるというものだ。人を救う? 人を守護する? 大言壮語も甚だしい……同胞一人の心を守れずして一体何が出来ると、」
「ルーシェル」
溢れて止まらない罵声の最中、ふわり、と。後ろから両肩に手を置かれた。視界に揺れる金の髪、大きな手のひら。見上げた先には空色。見下ろして来るのは困ったような青。
「もういいですから……私は、平気ですから」
静かな声だった。柔らかく微笑んでいて、慈しみさえ溢れる声色。まるでこの場の全てを宥めるような穏やかな声だ。しかし凍りついたかのようなこの場にそぐわぬ物言いは、酷く間抜けに宙に浮いていた。……状況を、理解しているのかさえ不確かである。
「だから、貴女がそのように感情を乱す必要など、」
「当事者が他人事みたいに言うな、一体何がいいんだ、あ? 一から全部説明してみろ!」
腹の底の怒りが収まらぬまま食ってかかれば、ヨシュアは心底困り果てたような顔をした。下がりきった眉、言葉を探すように眼差しが泳いで、ふ、と。伏せられる。男の長い睫毛が影を落とす。
「すべては私が至らないからで、」
「お前はまたわけのわからんことを……!」
肩に乗せられた手を振り払って男の胸ぐらをつかむ。睨みつける。
どうしてそこへ収束するのだ。
「どうしてそうなる! お前の責任がどこにあったと言うんだ!」
「ですから、……どうか彼らを責めないでください。全ては私の不徳の致す所」
「はあ!?」
「言ったでしょう、私は……嘘つきだと」
どこまでも自分が悪いのだと口にするヨシュアに絶句する。柔らかく微笑んで、何もかも受け入れたかのように。静かに悲しい笑顔。眼差し。別に、――別に、口を割りたいわけではなかった。言いたくない事、言えない事、お互い様だ。それでもただ、そうやって自罰するさまが気に入らなくてあまりにも苦しい。優しい天使、真白い天使、穢れなどない美しい天使。誰よりも幸せであれと、願うのに。
――言えない、のは。
ここに天使どもがいるからだろうか。
「…………ッ、」
ヨシュアの胸ぐらから乱暴に離した手を、そのまま男の腕へと滑らした。袖を掴んで強く引く、ここにはいたくないと、制止の声も振り切って部屋の外へと飛び出していた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




