89 残り香 - 3 -
よろしくお願いいたします。
地の底に長い間閉ざされていた。
闇という闇、重く苦しい空気、冷えた外気は肺腑まで凍りつかせるものだった。
何もかもが耐えられなくなって飛び出した先、一縷の望みを賭けて天界を襲撃したのはほとんど衝動的なものだった。空に連なる階層を突破していく、そこいらの天使など物の数にもならなかった。門を守護する衛兵たちを斬り殺し、強引に第六層にまで駆け昇っていった。
そうして訪れた先、眼下に広がる世界に、息を呑んだのをよく覚えている。
光り輝く世界。静謐で、暖かく、満たされていて全てが美しく整っている。
柔らかな風は甘く香るようだった。何もかも違う。痛みのない世界。自分を射る有象無象の眼差しだけが強く非難していて、同時に恐怖で慄いていた。魔界と同じだと、漏れ出た笑みは一体誰に向けられた嘲笑だったのだろう。
地に堕とされた我々とはあまりにも違う美しい世界。
そこに住まう神に愛された者達。平穏な空間。あまりにも、あまりにも美しくて。
――覚えたのはそう、怒りだった。
私を排除しようと向かってくる命知らずどもを、怒りのままにすべて斬り捨てた。清らかな真白い空間を血で染め上げた。それこそが自分にふさわしい場であると誇示するかのように。見せしめのように破壊した神殿。さながら墓標のように、折れた剣が地に突き刺さっていた。弱さは罪だ。まことに他愛もない。
その、あまりにも弱く取るに足らない者達をそれでも悼んだ天使どもの王。
春の空のように淡い青い瞳を氷のように凍らせて、こちらへと刃を向けた天界最強の天使。己を殺す圧倒的な剣。嬉しくて――とても、嬉しくて。
一切の情け容赦なく終わりをもたらして欲しい。
惨たらしく殺して欲しい、躊躇などせずにその刃を振り下ろせばいい。
わざと煽るような言動をした。怒りで強く輝く青はあまりにも美しかった。神に愛された存在とはこのようなものなのかと心底納得し、心底憎んだ。
大勢の中にあってただ一人、異常なまでに突出した光を放つ存在。自分と唯一肩を並べる事が可能な存在。強大で圧倒的な強さを持ち、多くの者に慕われ、ただ穏やかに微笑むばかりの木偶の坊。笑えるのは満たされているからだと信じて疑わなかった。優しく振る舞えるのは持つ者の傲慢さだとしか思えなかった。
なのに。
それらすべて、「整えられたもの」だった。
神への供物。祭壇の羊。
祝福などではない。
ただ差し出される形に削られてきただけの人形。
は、と。こぼれた吐息にはわずかに嗚咽が混じっていた。
いても立ってもいられなくなって、男の腕を掴んで屋敷を飛び出してもうどれくらい経っただろう。鮮やかなエルフの里は光に満ち溢れて目に痛く、なんだろう、似ていないはずなのに天界を彷彿とさせている。どこにも行けないのにあの場は嫌だった、当然のようにヨシュアに縋る天使どもに怖気が走った。型通りにはめようとして逸脱を赦さない、微笑みは、優しさは、強要されたものだった。
「そんなの、」
檻の中に幽閉されているのと変わらないじゃないか――
音にならないまま吐息となって言葉が落ちる、感情が胸の内で逆巻いて苦しい。握ったままの腕、男の袖の裾、振り払われない。圧倒的な体格差があるのに、私のことなどどうとでも出来るはずなのにそれをしない。されるがままの男が悲しくて悔しい。
「……ルーシェル、」
柔らかな音で名を呼ばれてびくりと肩が震えた。ようやく足を止める、気が付けば屋敷から随分と離れたようだった。一体どれくらいの間、無言のまま足を進めていたのだろう。
盛大な祭りの終わった翌日、少しずつ片付けられていく周囲。里。エルフ達がこちらへとちらちら向けてくる視線に、ヨシュアの腕を引いていることに今更ながらに羞恥が湧き上がった。慌てて手を離すのだが、その瞬間こちらを見下ろす男と目があった。ぶつかる淡い色彩の空色、優しい眼差しはしかし困惑にまみれている。責めるでもなくただ穏やかに見つめられて、ぶわ、と。肌が泡立った。
――なんと言えばいいのかわからない。
というか、先ほど、結構なことを叫んだような気がする。
幾ばくかは落ち着いてきてしまえば、己が何をしたのかを冷静に突きつけてくる。自分の意志とは関係なく頬が熱を帯びる、頭に血が上っていたとは言え、私はあの時、何を言った。
男の顔が見られなくなって視線を地に落とす。
天界のことなど知らない、のに。天使どもに雑に扱われる様子に、それを受け入れるばかりで反発もしない男に、猛烈に腹が立ったのだ。悲しい目をしているくせに。悪魔である私にわけのわからない泣き言を言うくせに。白い小娘の放つ横暴な物言いを粛々と受け入れる様が、どうしても気に入らなかった。物わかりの良いふりばかりするその取り繕った表情がどうしても赦せなかった。だから、――だから。だか、ら?
ふわ、と。
頭に何かをかけられてびくりと肩が跳ねた。
混乱の極地とも言える状態で、突如視界を覆ったのは真白い布だった。ほんのりと暖かくて、優しい匂いがするそれに今度こそ動けなくなってしまった。
「陽光が辛いのでしょう」
「は、」
「貴女が苦しそうでしたので……ないよりはましかと思ったのですが」
そろそろと目の前の男に視線をやれば、こちらを案ずるかのような天使がそこにはいた。着ていた上着を脱いで、日よけとしてこちらへ差し出したらしい男はそう言ってどこか寂しげに微笑んだ。
「……やはり、差し出がましかったでしょうか」
正解がわからないとばかりに薄く笑うその表情に、胸の奥がざわついた。自罰的な笑み。
どうして、どうしてそんな顔をするんだ。まるですべての罪は自分にあるとでも言わんばかりに苦しそうに。ぎゅうと掛けられた上着の裾を握りしめる。
「なんで……お前はそう……」
人のことばかり。
声が震えてそれ以上言葉にならない。
向けられるのはやはり、どうしようもない優しさだった。どこまでも献身的で、自我のない物言い。やわらかな言葉で、表情で、けれどそれは、そうであれと望まれたものだったのだろう。型通りの善人の姿。逸脱を赦さぬ強制。この気遣いは本心からなのかすら最早わからなかった、清らかな天使だと思っていた。きっとそれは真実なのだろうとも思う、思いたい。疑いたくない、けれど。苦しい思いをしているというのなら、それは嫌だとも思う。何が正しいのかもわかりはしないのに。
「……もう、そういう事はしなくていい」
「そういう事とは?」
男の目を見ることが出来ないまま低く呟くと、ヨシュアは不思議そうに問いを返してくる。
「私は悪魔だ」
拒絶するように、線を引くように。
はっきりと告げるのだが、男はどうにも理解した様子はなかった。眼の前に立ったまま、戸惑ったように目を逸らしたままのこちらをそうと見つめていた。足元で揺れる髪がかすかな影を落としている。
「そう、ですね。存じております」
「悪魔に善を働く必要などない」
今更何を言うのだろう、そんな色の満ちた言葉をぴしゃりと突き放した。
悪魔である私にすら心を砕くのは、そう背負わされてきたものだったのだろうか。誰にでも善を働くのは、優しいのは。白も銀も明確な殺意と憎悪を隠しもせずぶつけてくる、ヨシュアだけがそれをしない。ただ必要以上に手を伸ばしてくる。それは、そう課せられたから。誰にでも善を働くよう指示されているから。それこそが正しいと刷り込まれているから。
……私の傍にいること自体が更なる歪みをもたらしているとしか考えられなかった。平等であろうとするあまり、その適用範囲が拡大解釈されたのだろう。
元の世界へ戻るために。
この世界の住人を護るために。
それは理屈として一応は筋が通っている。
でも手を伸ばすのは違う、構うのも違う。贖罪をと言い出すのも、天界へと帰れと突き放したこちらをなおも追ってくる理由も、ペンダントを渡してくる理由も香水を選んだ理由も。理屈の範囲外だ。全部がおかしくなっている。
「……そう、でしょうか」
黙っていた男の、どこか他人事のような響きを持った呟き。
そうして、言葉を探すよう僅か考え込んだあと、ふ、と。空気の緩む音。
「あなたが悪魔だと言うなら私は天使です、困っている方を放っておくことなど出来ません」
静かな声に、思わず顔を上げる。
見上げた先には泣きたくなるほど美しく透明な笑み。
「それに、私は与える者。望まれたなら応える事は当然のこと」
無色透明、あらかじめ用意された定型文。まるであえて口にすることで自分に言い聞かせているかのようにさえ聞こえた。何故受け入れる、平気でいられる。どうしてそんなふうに笑える。
課せられたもの、期待、縛られて、強要されて、それでも何故従っていられるのだろう。受け入れているのだろう。籠の中の鳥。羽を切られたわけでもないのに、鍵を開けられても飛び立つこともしない。ここは天界ではないのに。天使から見た悪魔など、存在すら赦せないだろうに。
「なんで、……」
歪んでいる。
ここにいるのにどこにもいない。
「なんで平気でいられるんだ……」
嗚咽が喉に絡む。身体が小刻みに震える。頭からかけられた上着の裾をきつく握りしめる、そうでもしなければ無様にも泣いてしまいそうだった。なんで逃げない、どうして笑える、優しさを与えられる。こんなにも歪んでいるのに。演じているのだろうか、偽りなのだろうか。嘘つき、虚構、男の言葉は何もわからない。捕らえられた檻の中で、この男は一体、何を思って気の遠くなるような生を生きてきたのだろう。求められるままに。果てなく献身的に。柔らかく微笑んで、何もかも、すべてを飲み込んで。
ふ、と影が落ちる。
そろりと、恐る恐る男が距離を詰めたのがわかった。
「――私が、不用意なことを言ったからですね。気に病ませてしまったようで、」
「そうじゃない!」
心配そうに、けれどどこまでもズレた返答をする男を怒鳴りつける。
困ったようにしているのがわかる、私が何に対して怒りをぶつけているのか心底理解できないのだろう。そうじゃないなら何が問題だったのか、思い当たるものがないと。こちらを静かに見つめる男の顔がそう物語っていた。
ぎゅうと胸の奥が軋んだ音を立てる。
必死に自分の罪を数えて、不用意なこと――見つけて欲しいと、口にしたこと? 赦される気がするとこぼしたこと? そういった言葉を吐き出したから、私の様子がおかしくなったと結論づけたのだろうか。原因が分からないからどうしたらいいかわからない、償えない、どこまでも自罰的。どうしてそう、全部お前のせいになるんだ。
「そういうの、やめろ……」
ようやっと漏れ出た声はまる悲鳴じみていた。
何かを言わなければならないと思うのに、絡まりあった感情が出口を塞いで上手く形にならなかった。嫌だと思う、悲しくて苦しい。それなのに零れたのは子供の我儘のような物言い。
「その、全部お前に原因があるみたいなのやめろ……そんなの……私の感情は、私だけのものだ、お前の尺度で測るな」
ふわりと風が吹いて、上着の裾が揺れる。揺れて、視界を覆った。白で埋め尽くされる。ずれた布の隙間からヨシュアが覗く、なんと返すべきか考えあぐねいている顔だ。こちらの言葉が理解できていないのだろうことは容易くわかった。見ていられなくて視線をふいと逸らす。
上着の裾を一度強く握りしめて、力任せに引いた。そうしてそのまま突き返す。
「…………いらん、」
「ですが、」
「私はいらないと言った!」
顔をあげないまま、男の胸に上着を乱暴に押し付ける。
戸惑いを隠しもせず、しかしヨシュアはそろりと上着を受け取った。そうして何か言いたげにしながらも、結局黙ったまま。視界の端でくしゃくしゃになったそれを丁寧に直しているのが見える。再び羽織るのかと思ったが、男はふとその手を止めた。しばらくそうして何かを考え込むようにしていたが、やがて上着は畳まれて彼の腕にかけられる。
横たわる沈黙。
祭りの後片付けをするエルフ達の声だけが遠くに聞こえる。
やがて、ヨシュアは静かに口を開いた。
「……一度、戻りましょうか」
柔らかく微笑んで、ごく自然に腕を差し出される。
どこまでも気遣うその様があまりにも美しくて、酷く悲しい。自我のない天使。悪魔にさえ善を働く羊。祭壇の供物。男の境遇など考えたとて何もわかりはしない、知った所で何が変わるわけでもない。天と地、敵対者、光と影は永劫交わらぬ。汚濁の我が身、悲しい目をした真実清らかな天使、翳りすら赦さぬ光り輝くような白。私の望みは変わらない。
「……、」
胸の内は乱雑で支離滅裂な感情で吹き荒れたまま。
差し出された男の手を乱暴に掴む、何も変わらない天使。諦めたように何もかも受け入れているその、自分よりも遥かに大きくて硬いその手の温もりがどうしようもなく悲しかった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




