87 残り香
よろしくお願いいたします。
華やかな花祭りとやらは終わりを迎え、夜通し賑やかだった里も朝を迎えたなら後始末が待っている。エルフどもの営み、咲き誇る花、落ちた花弁は風に乗って自由気ままに流れていく。いわゆる撤収作業、淡い色彩の花、地に落ちたそれらはエルフどもに掃き清められていた。世界は変わらない速度のまま時を回し、区切りをつけた者達だけが忙しなく働いている。
……結局、ほとんど眠れなかった……
昇った日は煌々と土地を照らし、賑やかに祭り後の片付けをする者達を窓から見下ろしながらルーシェルは深々と息をつく。いつもの部屋には既に誰もいない。屋敷で待たせていたリーネンはそれなりに周囲から食物を与えられたらしく、酷く満足そうに傍で眠っているだけだ。食事を必要しないというのにすっかりこちらの生活に馴染みきっている。
唇からこぼれ落ちた吐息は重く床の上に転がるばかり。既に高く昇った太陽は目に痛く、鮮やかに新たな一日を始めている。昨夜のことを返そうとしても結局、どうやってここまで戻ってきたのかも定かではない。よく覚えていないのだ。歯がゆいまでに優しい時間だったような気もするが、それすら気恥ずかしさばかりが先立って何もわからないでいた。
魔力の灯る祭り会場、セセアとかいう大ぶりの花をつける大木、踊るエルフ達。聞き慣れない曲調、ほんのりと明かりは灯るものの、暗闇の中では注視せねば相手の表情も淡くぼやけてはっきりとは見えない。自分はと言えば、どういうわけだか梓に手を取られていた。嬉しそうに微笑んでいて、アーネストもなんだかんだと複雑そうにはしつつも祭り会場にいた。その場にいる者達は心底楽しんでいたのだろうと思う。恋人探しの祭り、会場にいるのは穏やかに嬉しげに手を繋いでいる若い男女の姿ばかりだった。仲睦まじく微笑んでいて、互いに幸せそうに寄り添う姿は、……。
――悪くないと思えるのです。
男の声が蘇ってぶわ、と。肌が再び熱を持つ。
いつものように煙に巻こうとしたのか、よくわからない言い回しをしていた男が、ふ、と。囁きのように落とした言葉。そこに込められた意味など知りようもない、男は別に、何も考えていなかっただけなのかもしれないのに。それでも、あれは、あの声はそう……酷く、甘くて。柔らかくて。勘違いしそうになる。何を考えているの皆目見当もつかない男、嘘つき、赦されたいわけではない、思わせぶりな台詞、では何故あんなすべてを諦めたかのような目をしていたのだろう。どうして私にそれを告げる、突き放したこちらの後を追って、腕を掴んだ。逃げないように引き寄せて、満足そうに、香水を選んだ。選んで、私が。喜ばなかったらそれはそれで酷く落胆したかのように。わけがわからない。
思考も熱も振り払うようにして頭を振る、馬鹿らしい。陳腐で下劣な感情。求めたとて意味がない、どうせ、どうやったって。もし自分が、なんの躊躇いもなく、あの男の手を取れる存在であれば――詮無い事。腑抜けた思考は堂々巡り。
ふと思い出して懐を探る。指先に触れる固い感触、取り出ししてみればそこには指の先ほどの大きさをした陶器。中に詰められているのは白く柔らかな練り香水だ、似合うと言われて渡されたのだが、どうにも持て余していた。
――練り香水の蓋を開けられなくて、かといってやはり捨てられなくて。少し手のひらの上で転がしてみる、ころころと転がるそれのすべらかさ。
これを渡してきた男の意図など、やはり何度考えてみてもわからない。哀れみか、贖罪か。装飾品などなくても困らない、ただの嗜好品。単なる遊び。天使の施しなど必要ない、私がありがたがると考えていたのならとんだ阿呆である。天使どもを統べる王はそれほどまでにおつむが弱いのか。純真無垢な天使、どこまでも柔らかく善である男。笑えるのは何ら憂えることがないからだと信じて疑わなかった。私は、あの男の事など。天使のことも天界のことも、何ひとつ知らないのに。
「それ、どうしたんです?」
突然第三者の声がして飛び上がるほど驚いた。
ぎょっとして声の方を見れば、いつの間にいたのだろう、不思議そうにこちらを見つめている黒髪の少女の姿。いつもと変わらない、昨日とは違う動きやすそうな格好でこちらを見つめているのだ。
「な、なに、」
「おはよーございまーす、ね、ね、それってヴェラーの香水ですよね? すっごく人気なんですよ、いい香りですよねぇ!」
私もいくつか持っているんですよう。人の気も知らないで、人間の小娘ははしゃいだようにまくし立てる。なかなかの圧に気圧されながらも、ヴェラー? 小さく口にするとお店の名前ですとこれまた続く。
「面白い店主さんですよねぇ」
梓はそう言って笑う。
……あれを面白いで括っていいのかは甚だ疑問ではある。無神経な愉快犯の印象が強く、思い返してみてもなんだか結構好き勝手に言われたような気しかしない。それにあの馬鹿天使がうまいこと転がされて……ああ、頭が痛い。どこまでもボケた天使は阿呆な質問にも丁寧に答え、不必要なまでにこちらを引っ掻き回してくれるのである。あれが本心なはずがない、ただ何も考えていないだけ。善でのみ動くからこそ、受け取り手のことなど端から眼中にない。
手のひらで転がしていた白い陶器、ヴェラーとやらは確かに人気の店だったのだろうとは思う。自分達の他にも女の客は何人かいたし、あの時肌につけた香水は、濁りのない透き通った香りを放っていたように思う、……そこまで思い出した瞬間。
――似合っているようで安心しました。
甘い声と柔らかな空色が。
脳裏に色鮮やかにフラッシュバックした。
「ルーシェルさん!?」
「ふぇ、?」
耐えられず、ごん、と。力いっぱい壁に頭を打ち付けた。ぎょっとした梓と、流石に飛び起きたらしいリーネンの間抜けな声が上がる。じんと痺れるような痛み、遅れてやってくる熱、は。それでも跳ね回る心の臓を少しも落ち着かせてはくれなかった。
「ちょ、ちょっと大丈夫ですか!?」
「…………うるさい、放っておけ」
ようやっとそれだけが声になった。喉が震える。熱を持つ頬を見られたくなくて手の甲で口元を押さえる、こんなことで動揺するなど何たる無様。思い出せ、私は悪魔で、魔界を統べる魔王で、こんなのは私ではない。そう、必死で言い聞かせるのに。
「るーしぇるさま、オネムですにゃ?」
ぽやぽやと、目をこすりながらリーネンがこちらを見上げてくる。どこまでも間抜けな声色。
「貴様と一緒にするな」
「だって、ずっと起きてたじゃーにゃいですか」
「リーネンちゃん、それはほら、ルーシェルさんは眠れなかったんですよ」
梓は梓で何が楽しいのか「わかってますよ」と言わんばかりにこちらを指先でつついてくる。鬱陶しいとばかりにその手を払いのけるのに、笑顔は崩れずへこたれた様子もない。
リーネンはといえば、ああ……と。実に興味なさそうな溜め息のような声。人型の姿を取っているくせに、器用に足で自分の首元を掻きながら大体のことを察したらしい。
「ルーシェルさまも大概趣味が悪いにゃ……」
「お前、その態度は一体なんだ。不敬にも程があるだろうが」
「面倒くさいんにゃー、前も言ったにゃー、ヨシュアはいい奴だけど、にゃーはこわいにゃ。天使は嫌いにゃ。ルーシェルさまが幸せにゃら別に……好きにしたらいいにゃ。ただ趣味は悪いと思う」
随分な言われようである。
そんなに何度も言われるだけのことが……まあ、なくはないか……あいつ、言動のその全てがわけわからん脳筋天使だものな……
「そんな事ないでしょうーやっぱり点灯式って特別なんですねぇ。ね? 香水ももらったんですよねぇ、良かったですね!」
擁護のしようがないと思うのだが、何故か梓だけが楽しげにしている。悪魔である私へ友だちになりたいのだと言い放った酔狂な娘は、色恋沙汰に対しても興味津々とばかりに首を突っ込んでくる。どこまで怖い物知らずなのか。
「何が良かっただ、何一つ良いことがない」
「またまたー大事そうに抱えているじゃあないですか」
すい、と梓が指さした先。握ったままの白い陶器。
捨ててしまえばいい、のに。出来ない自分が心底嫌になる。開会式でエルフどもが大木に魔力を灯していた、梓の言う点灯式とはあれを差しているのだとしか思えない。あのクソ馬鹿天使に促されて自分までもうっかりと力を使って、……梓は、あの時なんと言った。――幸せになれるって、言い伝えが――馬鹿馬鹿しい……!
「つけないんですか?」
小さな陶器を握りしめたままだからだろう、心底不思議そうに梓は小首を傾げる。リーネンはもはや会話に加わる気もないらしく、ふあ、と大きくあくびをした後ごろりと転がっていた。
「贈り物なんですよね?」
「…………、」
「ね、ヨシュアさんってどんな香りを選んだんです?」
「どうだっていいだろ、」
「えー、気になるじゃないですか。そんなに大切そうにしてるんですもん、嬉しかったのかなあって」
「違う!」
反射的に大声で否定していた。面食らったような梓、ぴくりと耳を動かすリーネン、口元を押さえるも飛び出したものは戻りはしない。
しんとした室内、でも――違う、違うのだ、そうじゃない。
あの男がこちらへ寄越してきたもの、ペンダントはまだかろうじてわかる。男の意思であえて刻まれたヘステールの文字、隠すものといった意味のそれ。お守りだというからには恐らく何かしらの術式なのだと思う。なのに、香水はそれがない。建前がない。誰に渡してもよかったのに、感謝が欲しいなら相応の人物が複数いるというのに。こちらへと手渡された意味。理由。私という存在が一体どういった者であるのか、知らないはずがないのに。そこまでされる理由が見当たらない。理解の範疇にない。
「そんなはずがない……」
こぼれ落ちた言葉のそのあまりの弱々しさに、自分でも笑いそうになった。どうせ考えたって理解など出来やしないのに、あの男の一挙一投足に振り回されて、こんな風に乱されて、どこまで腑抜けてしまったのだろう。強く否定をしなければ、それは自分ではなくなってしまうかのような気さえする。
不確かな感情を拾い上げてみても、それがどんな形をしていたものなのか判別もつかない。砕け散ったかけらを抱え上げたとて傷付けられるばかりだ。意味がない。意味がないのに、手を放すことが出来ないでいた。こんな感情は知らない。
兄の時に感じていたものとはまるで違う、優しいだけの感情じゃない。暖かくてただ嬉しいだけのものじゃない。光を紡いだかのような金の髪、空色の瞳。希望の色。柔らかく名を呼ばれる度に胸の奥が苦しくて、締め付けられるようで苦しい。熱くて甘くて苦い。
「……ね。それ、いらないならもらっちゃってもいい?」
つい、と。梓の少し痛んだ指先がこちらへと向けられる。それ――手の中で握られたままの陶器。使いで訪れた店の、単なるおまけの練り香水。いらない、もらう、その言葉に思わず目を見張れば、にこりと梓は笑った。
「嬉しくなかったんなら仕方がないですよねぇ。捨てちゃうくらいなら、欲しいなって」
ほら、人気店のものですし。
欲しいって人ならいっぱいいますし。
ふわふわと微笑んだまま、梓は何でもないかのように口にする。嬉しくなかったのなら仕方がない、捨てるくらいなら――欲しい人に――娘の言い分は、至極当然のことだった。理に適っている。なのに。
「それ、は」
喉の奥に何かがつっかえてうまく言葉にならない。
陶器を握りしめる、指の先ほどの小さな容器。白くまろい感触が掌に押し付けられて存在を主張する。こんなもの、と。思うのに。ただの物だ、何の意味も込められていないただの物質。単なる嗜好品。それでも、どうしても、首を縦に振ることは出来なかった。誰かが、自分ではない誰かが。触れるのが。使うのが。香りを纏うのが。――苦しい。いやだ、それはいやだ。醜い執着、果てしなく膨らむ欲望。焼けるように痛くて苦い。
……自分のものにならないなら、くれてやるなんて嘘だ。出来るわけがない。諦められるはずがない。手に入らないことなんか重々理解しているのに、あの男が触れるもの全てに焼け付くような羨望を覚える。特別になんて、なれるはずもないのに。
「…………、」
自嘲とともに呼気がこぼれ落ちる。滑稽なことこの上ない。
そろりと梓の両手が伸ばされてきて、身構えるこちらなどお構い無しにそのままぎゅうと陶器ごと手を握り込まれた。そうしてまるでなだめるかのように静かに微笑んで。ふ、と伏せられる色違いの瞳。
「ねぇ、手放したいんだったらそれまでですし、それは嫌だなって、そう、少しでも思ったなら。持っていたほうがいいと思うんです。後悔しないためにも」
向かい合って、まるで子供に向かって言い聞かせるかのように。梓は呟いて、少しかさついた指先で柔らかくこちらの手をさする。細くあたたかなそれ。うつむいて唇を噛む、向けられる優しさにどう対処していいのかわからない。恐いとすら、思う。
梓はいつだって自分に対し何ら物怖じしない。友達とはこういうものなのだろうか、そのような相手などこれまで存在していないので自分にはわからない。妙な人間の娘だと思う、自分自身も苦労してきただろうにそれを感じさせない。どうして笑えるのだろう、どこまでも人のことばかり。恐れなどないのだろうか、脆弱な人の身でありながら強くしなやかな魂。
……こういう所を、あの仏頂面のアーネストも好いたのだろうか。
愛だ恋だなど自分は知らない、わからない。焦がれるばかりで痛む胸、知らない感情、理解できないざわつき。それでも他者を想う苦しさは等しく訪れるのだろうか。好きな人が幸せなら――そう言って、迷いなく微笑んだエルフの男の。その胸の内など、わかろうはずもないのだけれど。
「…………さすが、恋を知る娘は違うな」
「うーん、素直じゃないなあ」
ようやっと口にできた言葉に、ふふ、と。梓は柔らかく笑った。そうしてするりと離れていく手、再び陶器が姿を現す。それを、梓はつん、と。つついて。
「ね、ね、香水、つけてみてくださいよ。ヨシュアさんの、ルーシェルさんのイメージって気になるんですよね」
「いい加減しつこいぞ、」
「駄目?」
そう言って梓は小首をかしげ、胸の前で両手のひらを合わせてこちらを見上げてくる。いわゆる、可愛らしくおねだり、という体である。……拒否することは、恐らく可能だろうが。きっとずっとこのやり取りが続くのだろうなということも容易く想像がついた。恐れを知らない豪胆な娘、ならばさっさとその好奇心を潰してしまったほうが精神衛生的には良いのかもしれない。そう、これは、苦渋の決断でもある。
はあ、と。これみよがしに溜息を付いた。
ばさりと己の長い髪をかき上げる、そうして陶器の蓋を開けると指先で柔らかなクリームを少量とった。やはり、どうしても手首に付ける気はなれなくて、そのまま己の耳裏にこすりつけた。ふっと、どこか冷たさを感じさせる香り。
満足か。
かき上げた髪を手ぐしで戻しながら、目でそう訴えるのだが。
眼の前の娘は口元を両手で覆いながら、ひゃー、と。また意味のない言葉にもならないものを口にしていた。
「……やっぱりセクシーですねぇ……」
「はあ?」
「いやあ……ルーシェルさんはもう少しこう、ご自分の容姿について自覚持ったほうがいいですよ」
意味がわからない。
眉根を寄せて胡乱な眼差しを向けるのだが、梓はだって、やっぱり凄くきれいなんですもん、と。答えになっていない答えを返してくる。お前は何を言っているんだ、呆れて言い放ちながら陶器の蓋を締める。動く度にふうわりと香る香水の涼やかなそれに、そわそわとなんだか落ち着かない。やはり止めておいたほうが良かっただろうか……
「でも、ふうん、ヨシュアさんってやっぱりルーシェルさんのこと好きなのでは?」
突拍子もない言葉に思わずむせた。
「あ、ぁ、りえないだろうがそんな事……ッ」
「でも、凄く似合っているっていうか……その、最初はちょっと冷たいのに、だんだん柔らかく香ってくるっていうか。甘ったるくないのに、優しい甘さっていうか。好きじゃない人にこんなぴったりの香り選べるかなって……」
言葉を探しながらなのか、ぽつぽつと口にする。
聞いていたくないのに、はくはくと唇が戦慄くだけで動けなかった。あり得ない、あり得るはずがない。あの男は、須らく平等で単なる慈悲の化身なのだ。悪魔にさえ心を砕く阿呆なのだ。特別などいない、ただ神の下僕。向けられる博愛。なのに、――なのに。
「よく、見てるんだなあって思って」
「あいつは! そういう奴だろう! 行動全部に意味なんかない!」
「そうかなあ……」
どういうわけだか梓は納得しない。
何やら考え込みながら、じいとこちらを見つめて近づいてくる。すん、と。匂いを嗅がれたのがわかった。近い、嗅ぐな、押しのけるのだが梓は器用に空飛ぶ座椅子を制御しているらしく離れやしない。
「だって、こんなに似合ってるのって奇跡じゃないです?」
そんなことを言われたって、自分に似合うかどうかなんてわかるわけがなかった。あのクソ馬鹿天使も満足してようだが――すき? あの男が? あり得ない。絶対に有り得ない。ただ満遍なく全方位に優しいだけだ。顔が熱い、跳ね回る心の臓が煩わしい。自分の拍動ばかりが耳の後ろを通って痛いほど煩い。似合っているようで安心した、安心、その言葉の意味もわからないというのに。悪くないと――一体、何が。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




