002 英雄の引退とその代償
「リーベ。今日、ディアンの爺さんは来たか?」
妻子がディナータイムで働く中、引き留めようとするギルドマネージャーの接待を受けていたエルガーが問う。
「いや」
彼女がそう答えると、「そうか」と手拭いや着替えを娘に押しつけ、家の外に出た。
「悪いが、ちょっと出かけてくる」
「待って!」
母と声が被ったので、リーベは引いた。
「ディアンさんを尋ねるにしても、こんな夜更けに行く必要は――」
「あの爺さんは昼夜逆転してんだ。それに、今日中に話を付けなきゃなんねえんだ。悪いが先に休んでいてくれ」
そう言い残すとエルガーは家の前を去って行った。その後ろ姿が街頭の薄明かりを受けて白む中、シェーンは溜め息交じりに言う。
「仕方ないわね……わたしたちは先に休んでいましょうか」
「……うん」
ドアを開け、屋内に踏み込みながらリーベは父の去って行った方角を見やる。
そこに人影はなく、靴音も聞こえてこなかった。
仕方ないと二階へ上がろうとするが、母がホールに居座る様子を見せた。だからも自分も一緒にとリーベは思ったが、「いつもお寝坊なんだから、早くお休みなさい」と断られた。食い下がろうにも、日頃の行いのせいで致し方なかった。
ディアンは元冒険者だった。
しかしスタンピードの際、エルガーを庇い腕を無くし、冒険者引退を余儀なくされた。
そんな彼は画家として成功しているものの、欲が無く、幽霊が出そうな古めかしい家に使えない召し使いと2人で住んでいる。
エルガーはその質朴とした生き方が彼らしいと思いつつも、せめてもう少し上等な家に住めば良いのにと思わずにはいられなかった。
ドンドン!
エルガーがドアを叩くも反応がない。
「ディアン! いねえのか?」
再度叩くとドアが開き、暗がりから魔女みたいな怪しい顔が現われる。
「ディアン……」
「まったく、お前はノッカーも使えんのか」
「あ?」
ドアを見ると、シカモチーフのノッカーがあった。
「ホントだ……あはは!」
「……これでよく冒険者をやってこられたものだな」
陰気な目が彼を睨み上げる。すると心を見透かされるかのようで、エルガーは居心地の悪い思いをした。
「そんなところに突っ立っておらんで、入ったらどうなんだ?」
「あ、ああ……そうする」
それから2人はカビ臭い廊下を歩き、アトリエへと向かった。その道中、エルガーはディアンの失われた右腕ばかりを見つめていた。幻肢痛は実在するのだろうか、と些細でありながら、重大な疑問が彼の胸を圧していく。
ディアンのアトリエは厨房から設備を抜き出したような造りで、代わり画材が所狭しと置かれている。そして部屋の中央には描き掛けのカンバスがあった。
「…………」
描かれているのはワイバーンという魔物で、青空を背にこちらを睥睨している。背後には太陽があるのか、顔や腹には逆光で影が差している。その一方で翼膜は透けており血管が僅かに浮かび上がっている。それがリアリティを超越した迫力を生み出していた。
エルガーはワイバーンと戦った事が何度もあった。それ故にこの画が、まるで自分の記憶の一部を抜き出しているように思えてならなかった。
「すげえな……」
「ワシは見たまんましか描けない……だからそろそろ、ネタ切れだ」
ディアンは色褪せた目をカンバスに向けて言う。その言葉に……仕草に。エルガーの胸の内で蟠っていた罪悪感がいっそう重厚なものになる。その重みに耐えかねて、彼は詫びを零した。
「……すまねえ。俺、冒険者を引退したんだ」
弁明の言葉などなく、彼は深々と頭を下げる。
すると空気が澱み、瘴気のように彼の心を蝕んでいく。その息苦しさに喘いでいると、ディアンが「一度引退してなおも剣を手放さなかったお前がどうして?」と問う。
「……俺は引退してからも、他の連中には狩れないような魔物を引き受けてきた。だが、家族を心配させたくはなかった。だからいつも嘘をついてきたんだ」
「……で、それがバレたと」
「ああ。よりによって、カンプフベアと戦った事が知られたんだ。……それで、シェーンに言われたんだ。俺に頼ってばかりいるから、この街の冒険者が育たないんだってな」
「道理だな」
ディアンは瞑目した。彼が激情家でないことをエルガーはよく知っている。だから一定の理解を示してくれることには何の驚きもない。だがそれだけに恐ろしかった。
再び沈黙が流れ……しばらくの後、ハゲタカのような目がエルガーを睨み上げた。
「エルガーよ。お前はあの時、言っていたよな? ワシの分まで、死ぬまで戦うと」
「……言った」
「お前の事だ。それを気にしてるのだろうが、それについて今更どうこういうつもりはない」
「何でだ?」
「くくく! 一度引退しているやつが、何を今更と思ってな!」
「そら! 『いざとなりゃ戦ってやる』って引退したんだ!」
「積極的に戦わないのだから、結局はおなじことよ!」
「むう……」
歯噛みしていると、ディアンは途端に神妙になった。
「だがな、そう簡単に終われるとは思わないことだ」
「……どういう事だ?」
「あの恐怖を体験した連中は、お前に希望を託してる。ワシのようにな……」
平和への願いを託されたのはエルガー自身自覚していた……だが彼は、やれるだけの事はやったつもりだった。だが、それでも不足だというのだろうか?
煩悶としているとディアンが続ける。
「英雄に求められるのは腕だけじゃない。その意味をよく考えることだ」
「…………」
(まさか……いや。だってリーベは……)
焦燥する心に冷や水を浴びせるようにディアンが吐き捨てる。
「さ。仕上げの邪魔だ。とっとと帰れ」
「……ああ。邪魔したな」
ディアンに背を向けた時、エルガーはふと振り返った。
陰気くさい部屋で老人がカンバスへ向かう姿は物悲しい以外の何物でもない。しかし、その眼差しだけは生き生きとして見えた。
「なにを突っ立ってる? ワシは人に見られてると画が描けないんだ」
「あ……すまねえな。んじゃ、たまには店に寄ってくれよな」
そう言い残して、彼はディアンの家を後にした。




