第44章 ここはゲームじゃない
王都の上空に走った白い亀裂は、まるで巨大な画面そのものを誰かが外側から切り裂いたかのように広がっていった。
レオンは無意識に拳を握る。
「……間に合わなかったのか」
隣に立つカイルが険しい顔で空を見上げた。
「いや」
ノアが答える。
「お前の接続は切れた。それは間違いない」
「じゃあ、あれは?」
ノアは数秒黙った。
そして、吐き捨てるように言った。
「別口だ」
その瞬間。
空中に、文字が浮かび上がる。
《EXTERNAL CONNECTION》
《PLAYER LOGIN》
《接続方式:新規》
《認証完了》
レオンの背筋を冷たいものが走った。
もう、自分にはステータス画面は見えない。
プレイヤー権限もない。
それでも、その文字だけははっきり見えた。
つまり。
これは世界そのものが表示している。
「……来るぞ」
エリシアの声と同時に、白い亀裂から光が落ちた。
王都中央広場。
地面を揺らすほどの衝撃はなかった。
爆発もない。
ただ一人の男が、そこに立っていた。
年齢はレオンと同じくらい。
黒髪。
革鎧。
腰には初心者用としか思えない鉄剣。
男はゆっくり周囲を見回した。
建物を見る。
空を見る。
そして、人々を見る。
「うわ……」
口元が上がった。
「マジですげえ」
レオンは、その表情を知っていた。
初めて新しいゲームを起動したとき。
初めて広大なフィールドを見たとき。
グラフィックの美しさに驚いたとき。
自分も、きっと同じ顔をしていた。
男が両手を広げる。
「NPC、めちゃくちゃリアルじゃん!」
広場にいた人々が、不安そうに顔を見合わせた。
「えぬ……ぴーしー?」
八百屋の老人が首を傾げる。
その隣で、幼い少女が母親の服を掴んだ。
レオンは何も言わず歩き出した。
「レオン」
エリシアが呼ぶ。
「大丈夫だ」
大丈夫。
そう口にしながら、自分でも何が大丈夫なのか分からなかった。
ただ。
あの男を、このまま放っておいてはいけない。
それだけは分かる。
広場へ入る。
男はちょうど自分の手を眺めていた。
「感覚まであるのか。痛覚設定とかどうなってんだ?」
そしてレオンに気づいた。
「お」
視線が止まる。
「なんか重要キャラっぽいの来た」
レオンは男の正面で立ち止まった。
「名前は?」
「え?」
「名前だ」
男は一瞬きょとんとしたあと笑った。
「もしかして会話AI? すげえな」
「名前」
「……シン」
答えた。
「プレイヤーネームは?」
男――シンの表情が変わった。
「は?」
「あるんだろ」
レオンは静かに続けた。
「ここに来る前、入力した名前が」
沈黙。
シンの右手がわずかに動いた。
おそらく、メニューを開こうとした。
次の瞬間。
「あれ?」
宙を指でなぞる。
もう一度。
「……メニュー、出ねえ」
ノアがレオンの後ろまで来た。
「当然だ」
「誰だよ、お前」
「ここはゲームサーバーじゃない」
ノアが告げる。
「接続した瞬間、お前のクライアント権限は切断された」
「……は?」
「ログアウトもできない」
シンの笑顔が消えた。
「いやいや」
もう一度、何もない空間を操作する。
「ログアウト」
反応はない。
「メニュー」
何も起こらない。
「システム」
沈黙。
シンの呼吸が速くなった。
「おい……」
レオンは黙って見ていた。
分かる。
あの焦りを。
もし自分がこの世界へ来た直後に「帰れない」と確定で告げられていたら、同じ反応をしていたかもしれない。
「ふざけんなよ」
シンがノアへ詰め寄る。
「バグだろ!? 運営に連絡しろよ!」
「運営はいない」
「いるだろ!」
「少なくとも、この世界にはいない」
「じゃあGM呼べ!」
ノアは何も答えなかった。
シンの視線が揺れる。
周囲を見回す。
老人。
商人。
兵士。
子ども。
誰も彼を好奇心で見ているわけではない。
怯えている。
困惑している。
自分たちを理解不能な言葉で呼ぶ異邦人を。
シンが小さく呟いた。
「……NPCだろ」
誰も答えない。
「だって……ゲームなんだから」
レオンは、その言葉を聞いて胸の奥が少しだけ痛んだ。
かつての自分なら。
どうだっただろう。
この世界を知っていると信じていた。
未来を知っていると思っていた。
人間を攻略対象として見たことはなかった。
そう言い切れるだろうか。
「シン」
レオンが口を開く。
「一つだけ覚えておけ」
「……何だよ」
「ここにいる奴らは死ぬ」
シンの眉が動いた。
「腹も減る。怪我もする。泣くし、怒るし、家族もいる」
レオンは広場の人々を見る。
「お前がNPCだと思ってる爺さんは、毎朝五時から店を開けてる」
八百屋の老人が目を丸くする。
「そこの兵士は娘が二人いる。あの店の夫婦は去年、息子が生まれた」
レオンは再びシンを見る。
「ここでは、それが全部本物だ」
「……そんなの」
「信じなくていい」
レオンは言った。
「今すぐはな」
シンが顔を上げる。
「でも、試すな」
「何を」
「殺して復活するか、とか」
空気が止まった。
シンの顔から血の気が引く。
レオンはその反応を見逃さなかった。
考えたのだ。
ほんの一瞬。
ゲームだと思っているなら当然だ。
だが。
この世界では、その一度が取り返しのつかない一度になる。
「死んだ奴は戻らない」
低い声で告げる。
「少なくとも、俺たちが作ったこの世界ではな」
シンが黙る。
そのとき。
レオンの背後でエリシアが息を呑んだ。
「お兄ちゃん」
声が違った。
レオンが振り返る。
エリシアは空を見ていた。
さっきまで一つだった亀裂。
その周囲に。
小さな白い点が浮かんでいる。
一つ。
二つ。
五つ。
十。
さらに増える。
ノアの顔色が変わった。
「まずい」
「何がだ」
ノアの前に半透明の表示が開く。
《接続待機数》
《12》
数字が変わる。
《27》
さらに。
《54》
「おい……」
カイルが呟く。
ノアは歯を食いしばった。
「こいつ一人じゃない」
《接続待機数:103》
《接続待機数:218》
《接続待機数:451》
シンが空を見上げる。
「……嘘だろ」
レオンも、そこで理解した。
この世界は外から見つかった。
そして。
向こう側にいる人間たちは、まだ知らない。
ここが本物の世界だということを。
彼らに見えているのは、おそらく一つの新作ゲーム。
未知の世界。
新しい冒険。
新しいダンジョン。
新しいNPC。
ノアが拳を握る。
「情報が拡散してる」
「どれくらい来る」
「分からない」
数字は止まらない。
《接続待機数:927》
《1,604》
《3,221》
エリシアが青ざめる。
「全員が入ってきたら……」
レオンは答えなかった。
答える必要もなかった。
一人なら説明できる。
十人でも、百人でも。
もしかしたら何とかなる。
だが。
何千。
何万。
世界をゲームだと思っている人間が押し寄せたら。
しかも。
その中に悪意を持つ人間が一人もいないなど、あり得ない。
レオンは空を睨んだ。
長い戦いの末に。
ようやく手に入れた。
誰にもシナリオを強制されない世界。
誰も役割を決められない世界。
自由に生きられる世界。
そこへ今度は。
「プレイヤー」がやって来る。
カイルが剣の柄に手を置いた。
「どうする」
レオンは答えようとして。
止まった。
違う。
閉じればいい。
そんな単純な話ではない。
シンを見る。
怯えていた。
帰れない。
知らない世界。
自分だけが取り残された。
それは。
かつての自分と同じだ。
外から来たという理由だけで。
敵にしていいのか。
だが。
世界を守らなければならない。
レオンはゆっくり息を吐いた。
「ノア」
「なんだ」
「入口を閉じる方法はあるか」
「完全封鎖ならある」
ノアが答える。
「ただし」
嫌な予感がした。
「すでに接続した魂は、外へ戻せない」
レオンの目が細くなる。
ノアは続ける。
「そして封鎖すれば――」
空中に新たな文字が現れた。
《WARNING》
《EXTERNAL WORLD CONNECTION》
《完全閉鎖処理を実行した場合》
《双方世界間の接続を永久消失》
レオンは、その続きを読む。
《転生者レオン・ヴァルハルト》
《元世界への帰還可能性:0%》
静かになった。
誰も何も言わない。
レオンは表示を見つめた。
元の世界。
もう戻るつもりなどない。
そう思っていた。
それでも。
「永久に戻れない」と誰かに決められると。
不思議なほど胸に刺さった。
エリシアが、そっとレオンの袖を掴む。
「お兄ちゃん……」
レオンは妹を見る。
その向こうにカイルがいる。
ノアがいる。
王都の人々がいる。
そして。
怯えた顔で立つシンがいる。
自分が選ばなければならない。
外の世界との繋がりを残すか。
この世界を守るため。
永遠に扉を閉ざすか。
空では接続待機数が増え続けていた。
《接続待機数:8,942》
レオンは、小さく笑った。
「最後の最後まで」
ほんの少しだけ。
昔のプレイヤーだった頃の顔で。
「選択肢が重いゲームだな」
ノアが眉をひそめる。
「これはゲームじゃない」
「ああ」
レオンは空を見上げた。
「知ってる」
そして。
右手を伸ばした。
《WORLD CONNECTION》
《完全閉鎖》
その文字へ。
指先を近づける。
あと数センチ。
そこで。
シンが叫んだ。
「待ってくれ!」
レオンの手が止まった。
シンは震えていた。
だが。
その目は、まっすぐレオンを見ている。
「帰る方法がないなら……」
唇を噛み。
それでも言った。
「せめて俺にも、選ばせてくれ」
レオンは振り返る。
初めて。
そこにいる男を。
プレイヤーではなく。
一人の人間として見た。
――そして同時に。
空の亀裂から。
二人目の光が落ちた。
《PLAYER LOGIN》
《接続成功》
レオンの目が鋭くなる。
広場の中央。
光の中から現れた人物は。
地面に降り立つなり。
迷うことなく剣を抜いた。
そして。
笑った。
「うわ」
周囲の住民を見回し。
楽しそうに。
「本当に何でもできそうじゃん」
レオンの顔から、笑みが消えた。




