第40章 世界の外から来た男
空に開いた亀裂は、消えなかった。
黒い傷のように学院の上空へ残り、その中心に立つ男だけが、俺たちを見下ろしている。
剣を握る。
――いや。
握ろうとして、指が止まった。
さっきまでなら、相手を見た瞬間に《解析》を使っていた。
レベル。
HP。
スキル。
装備。
敵対判定。
少なくとも、何かしらの情報が出た。
だが今は。
何もない。
視界にはただ一人の男がいるだけだった。
「……本当に消えたんだな」
俺が呟くと、隣のカイルが小さく息を吐いた。
「俺もだ。ステータスも、クエストも、全部見えない」
「お前も?」
「ああ」
カイルが右手を空中へ伸ばす。
以前なら、そこには半透明のウィンドウが開いていた。
だが、何も起きない。
第八世界が完成した瞬間。
俺たちは。
〝プレイヤー〟ではなくなった。
少なくとも。
そう思っていた。
「正確には違う」
男が言った。
俺とカイルが同時に顔を上げる。
男は亀裂からゆっくり降りてくる。
足場などない。
それなのに、空中を階段でも降りるように歩いてきた。
一歩。
二歩。
そして学院の中庭へ着地する。
黒髪。
三十歳前後に見える男。
服装はこの世界のものではない。
鎧でもローブでもなく、黒いジャケットに細身のパンツ。
……見覚えがある。
いや。
この世界で、じゃない。
「その服……」
男が笑った。
「気づくよな」
胸の奥が嫌な音を立てた。
日本。
俺が〝前世〟だと思っていた世界。
そこにいた人間の服装だった。
エリシアが俺の横へ出る。
「あなたは何者?」
「今の君たちに分かる言葉で説明するなら――」
男は少し考え。
「外部接続者、かな」
その瞬間。
俺の背後でカイルの息が止まった。
「外部……?」
「そう。君たちが作った第八世界の外側にいる人間だ」
静寂。
学院の中庭には大勢の生徒がいる。
だが誰一人、こちらを見ていない。
いや。
違う。
動いていない。
風に揺れていた木の葉も。
空を飛んでいた鳥も。
すべてが停止している。
「時間を止めたのか」
「違う」
男は首を振った。
「接続対象以外を一時的に切っただけだ」
俺。
カイル。
エリシア。
そして。
「レオン!」
後ろからリリアが走ってくる。
動けている。
男の眉がわずかに上がった。
「……四人?」
「リリア?」
俺も驚いた。
本来なら。
彼女はシステムにも、管理者権限にも、プレイヤー権限にも関係がない。
少なくとも。
俺たちはそう思っていた。
男はしばらくリリアを見つめたあと、楽しそうに笑った。
「なるほど。完全に独立したっていうのは嘘じゃないらしい」
「質問に答えろ」
カイルが前へ出る。
「お前は誰だ」
「名前?」
「全部だ」
「欲張りだな」
男は肩を竦めた。
そして。
俺を見る。
「昔は《ノア》って名前を使ってた」
――ノア。
知らない。
少なくとも。
《ECLIPSE ONLINE》で有名だったプレイヤー名じゃない。
「知らない顔だな」
「当然だよ」
ノアは言った。
「俺はプレイヤーじゃない」
一拍。
「君たちの言葉で言えば――運営側だ」
ぞくり。
背中に寒気が走った。
ゲームの運営。
そんな言葉が。
今さら出てくるとは思っていなかった。
カイルも同じらしい。
「……ふざけてんのか?」
「ふざけてない」
「じゃあ、この世界はやっぱりゲームなのかよ」
ノアは。
そこで初めて。
笑うのをやめた。
「逆だ」
「……何?」
「ゲームのほうが、この世界を利用して作られた」
俺の思考が止まる。
それは。
以前聞いた話と一致する。
第一世界から第六世界。
それらの記録を簡略化し、娯楽化したもの。
それが俺たちの知っていたゲーム。
《ECLIPSE ONLINE》。
「じゃあ運営っていうのは――」
「世界を作った連中じゃない」
ノアは空を指差す。
「観測して、記録して、外側に再現した連中だ」
エリシアの顔が険しくなる。
「観測者……」
「そう呼ばれてたみたいだね」
ノアはエリシアを見る。
「君たちのWORLD SYSTEMには」
WORLD SYSTEM。
その名前を聞いた瞬間、エリシアの肩が僅かに震えた。
あれは倒した。
いや。
切り離した。
第八世界はWORLD SYSTEMの支配から独立した。
そのはずだ。
「なら何しに来た」
俺は剣の柄から手を離した。
もう解析はない。
敵なら。
自分で見極めるしかない。
ノアはそんな俺を見て、小さく笑った。
「警告しに来た」
「警告?」
「君たちはWORLD SYSTEMから独立した。観測シナリオからも、管理者からも、既定の物語からも外れた」
「……ああ」
「それ自体は成功だ」
ノアが空を見上げる。
黒い亀裂。
その奥。
一瞬。
無数の光が見えた。
星ではない。
小さな窓。
いや。
画面?
「でも外から切れたわけじゃない」
俺の喉が鳴った。
ノアが指を鳴らす。
瞬間。
空いっぱいに。
文字が浮かんだ。
今までのシステム表示とは違う。
白でも。
青でも。
赤でもない。
文字そのものが、空間へ直接刻まれていく。
《EXTERNAL CONNECTION》
《TARGET WORLD――08》
《CONNECTION STATUS――ACTIVE》
《ACCESS USERS――》
そこで表示が乱れた。
数字だけが高速で変化していく。
一。
十二。
百八十七。
四千。
二万。
十万。
「……なんだよ、これ」
カイルが呟く。
ノアは答えなかった。
数字は増え続ける。
そして。
《ACCESS USERS――測定不能》
止まった。
背筋が冷える。
理解したくなかった。
でも。
俺には。
あまりにも見覚えのある光景だった。
アクセス数。
接続人数。
つまり。
「見られてる……?」
リリアの声だった。
ノアが頷く。
「そう」
エリシアが空を睨む。
「誰に?」
数秒の沈黙。
そしてノアは。
俺たちにとって最悪の答えを口にした。
「プレイヤーだよ」
心臓が跳ねた。
「……は?」
「君たちが完成させた第八世界は独立した。だから消去も初期化もできなくなった」
ノアは淡々と続ける。
「その代わり――外部側から見れば、新しい接続先が一つ生まれた」
「待て」
カイルが遮る。
「それって……」
「ああ」
ノアは笑わなかった。
「新しいゲームワールドとして認識された」
頭の中が真っ白になった。
冗談じゃない。
俺たちは。
ゲームから抜け出すために戦った。
世界補正を壊した。
管理者を拒絶した。
WORLD SYSTEMまで切った。
なのに。
それで完成した世界が。
外側から。
〝新しいゲーム〟として認識された?
「接続を切れ」
俺は言った。
「できるなら、とっくにやってる」
「方法は」
「ある」
即答だった。
俺を見る。
嫌な予感がする。
ノアが右手を上げた。
俺の目の前。
もう二度と出ないと思っていた場所に。
小さなウィンドウが現れる。
――俺にだけ。
《UNKNOWN AUTHORITY DETECTED》
《PLAYER DATA――RESIDUAL》
息が止まる。
「……なんで」
プレイヤー権限は。
消えたはずだ。
ステータスも。
スキル表示も。
アイテム欄も。
全部。
「消えてない」
ノアが静かに言った。
「表面上の機能を失っただけだ」
文字が追加される。
《ACCOUNT CONNECTION――ACTIVE》
《EXTERNAL ID――ACTIVE》
《LOGOUT AUTHORITY――LOCKED》
ログアウト。
その単語に。
俺は目を奪われた。
カイルがこちらを見る。
「レオン?」
「……俺にだけ、見えてる」
「何が?」
答える前に。
ノアが言った。
「この世界にはまだ一つだけ、ゲームだった頃の仕組みが残ってる」
俺は画面を見る。
《LOGOUT AUTHORITY――LOCKED》
「世界を出るための権限」
ノアが。
俺を指差した。
「そして、その鍵を持ってるのは――」
嫌な予感が。
確信へ変わる。
《AUTHORITY HOLDER》
文字が浮かぶ。
《LEON VALHART》
俺だった。
ノアが静かに告げる。
「君だよ、レオン」
世界をゲームから解放したはずの俺が。
最後まで残った。
〝プレイヤー〟だった。
そしてその瞬間。
空の亀裂の向こうから。
何かがこちらを覗いた。
巨大な。
人間の目。
《外部プレイヤーからの接続要求を確認》
《承認処理を開始します》
「おい」
俺は空を睨んだ。
「誰が承認するって言った」
だが。
返ってきた表示は。
もっと最悪だった。
《自動承認まで――》
《00:59:59》
残り一時間。
ノアが呟く。
「それまでに完全に切れなければ――」
空の亀裂が。
ゆっくりと広がり始める。
「この世界に、本物のプレイヤーが入ってくる」
俺は剣を抜いた。
ステータスはない。
レベルもない。
攻略サイトも。
セーブも。
コンティニューもない。
それでも。
やることは変わらなかった。
「だったら切る」
俺は空を見上げる。
「今度こそ、本当に全部だ」
その直後。
俺の視界に。
最後のクエストが表示された。
《特殊クエストが発生しました》
《世界との接続を断て》
《制限時間――00:59:41》
《失敗条件》
《外部プレイヤーの第八世界への侵入》
そして。
その下に。
もう一行。
《切断対象――》
文字が浮かぶ。
俺は。
言葉を失った。
《レオン・ヴァルハルト》
――俺を切れば。
この世界は。
ゲームではなくなる。




