第32章 ゲームにいなかったボスほど面倒なものはない
嫌な予感というものは、大抵当たる。
特に、この世界に来てからの俺の嫌な予感は、妙なところで的中率が高い。
そして今、目の前に浮かんでいる半透明のウィンドウは、その予感が今回も正しかったことを証明していた。
《警告》
《未登録領域との接続を確認》
《シナリオデータとの照合――失敗》
《対象を既存データ上に確認できません》
俺は無言でそれを見つめた。
「……やっぱり、知らねえよな」
隣に立つカイルが小さく息を吐く。
「少なくとも、俺の知ってる『ECLIPSE ONLINE』にはなかった」
「俺もだ」
俺たち二人が知らない。
それだけなら、まだいい。
隠しイベントという可能性もあるし、俺が現役だった頃に見落としていたコンテンツだってゼロじゃない。
だが。
《シナリオデータとの照合――失敗》。
この表示は、そういう意味じゃない。
ゲームに存在していたけど知らないんじゃない。
そもそも――ゲーム側のデータに存在しない。
「レオン」
後ろからリリアが声をかけてきた。
その声に振り返ると、彼女はいつでも剣を抜けるように柄へ手を添えている。
「どうするの?」
「戻るって選択肢は?」
「ある」
俺は即答した。
リリアが少し意外そうな顔をする。
「あるんだ」
「俺をなんだと思ってるんだよ」
「危険だって言いながら一番先に突っ込む人」
「……否定しづらいな」
横でカイルが笑った。
こいつまで笑うな。
ただ、今回は本当に戻るという選択肢がある。
知らない場所。
知らない敵。
ゲーム知識が通用しない可能性。
普通に考えれば、撤退して情報を集めるべきだ。
それが正しい。
正しいんだが――。
俺はもう一度、目の前を見た。
学院の地下。
本来ならただの旧倉庫で終わるはずだったその場所に、黒い亀裂が開いている。
縦に二メートルほど。
空間そのものを切り裂いたような亀裂の向こうには、石造りの通路らしきものが見えた。
そして。
その奥からずっと感じている。
呼ばれているような感覚。
気のせいじゃない。
俺が一歩近づくたび、胸の奥――いや、もっと深い場所が微かに熱を持つ。
《深淵接続率:上昇》
表示された文字を見て、俺は眉をひそめた。
やっぱりな。
俺の職業。
《アビスウォーカー》。
そして、あの地下墓地で手に入れた力。
この亀裂は、俺と無関係じゃない。
「行くんだろ?」
カイルが言った。
「……なんで分かる」
「お前、さっきから戻るって言いながら一歩も出口の方見てねえぞ」
マジか。
「癖って怖いな」
「単純なだけだろ」
「喧嘩売ってる?」
そんな俺たちのやり取りを聞いていたリリアが、呆れたようにため息をついた。
「で、結局?」
俺は亀裂へ向き直る。
「入る」
「だと思った」
「ただし条件がある。何かおかしいと思ったら即撤退。敵が出ても、情報が取れないなら無理に倒さない。特に――」
俺はカイルを見る。
「一人で突っ込むなよ」
「それ、お前にだけは言われたくない」
ですよね。
◇
亀裂を抜けた瞬間。
世界が変わった。
温度が一気に下がり、吐いた息が白くなる。
足元には黒い石床。
壁には青白い炎が一定間隔で灯されている。
だが、火が揺れていない。
風がないからじゃない。
まるで映像を貼り付けたみたいに、完全に静止している。
「……気味悪いな」
カイルが呟いた。
「ああ」
俺も同意する。
ここはダンジョンっぽい。
見た目だけなら。
けれど、ゲームのダンジョンとは決定的に違う。
俺には分かる。
壁の配置。
通路の幅。
敵が湧くためのスペース。
宝箱を置く位置。
プレイヤーを誘導する視線設計。
そういうものが、一切ない。
ゲームとして作られた場所じゃない。
「レオン」
リリアが壁を指差した。
「これ」
そこには文字が刻まれていた。
古代文字。
この世界の一般人なら読めない。
ゲームでも特定のクエストを進めなければ解読できなかった言語だ。
だが、俺の《解析》なら――。
《解析を開始します》
数秒後。
文字の上に翻訳が重なる。
『第七観測領域』
俺の足が止まった。
「……第七?」
カイルも反応した。
当然だ。
俺たちは知っている。
以前表示された、あの意味不明な言葉を。
《第七世界》
偶然とは思えない。
さらに下。
俺は続きを読む。
『対象世界の安定性、規定値以下』
『外部記憶保持個体の増加を確認』
『シナリオ自律修復を開始』
心臓が一度、大きく鳴った。
「おい」
カイルの声が低くなる。
「ああ」
外部記憶保持個体。
つまり。
俺たちだ。
「これ……俺たちが来てから作られた場所じゃないよな?」
「多分違う」
石壁は古い。
少なくとも数年や数十年ってレベルじゃない。
俺たちがこの世界へ来るずっと前から、この場所は存在していた。
なのに。
ここには俺たちのような存在について記録されている。
おかしい。
順番が逆だ。
俺たちが来たから観測が始まったんじゃない。
もしかすると――。
「最初から、来ることを想定されてた?」
リリアが言った。
俺は黙った。
その可能性を、考えたくなかった。
だが。
否定できない。
その時だった。
――カツン。
奥の通路から音がした。
三人同時に顔を上げる。
――カツン。
足音。
ゆっくり。
一定の間隔で。
こちらへ近づいてくる。
カイルが剣を抜いた。
リリアも続く。
俺も短剣へ手を伸ばしながら、《解析》を発動する。
暗闇の奥。
人影が見えた。
細い。
人間くらいの大きさ。
敵ならステータスが出るはずだ。
名前。
レベル。
HP。
属性。
だが――。
《解析不能》
それだけだった。
「……またかよ」
思わず漏れる。
影が青白い炎の下へ入った。
人。
いや。
人型、と言った方がいい。
全身を黒いローブで覆い、顔には真っ白な仮面。
目も。
口も。
何も描かれていない。
ただの白。
そいつは俺たちから十メートルほど離れた場所で止まった。
「誰だ」
カイルが問いかける。
返事はない。
代わりに。
仮面の首がゆっくり動いた。
カイルを見る。
リリアを見る。
そして。
俺を見る。
その瞬間。
視界いっぱいに警告表示が広がった。
《緊急警告》
《上位観測権限を検出》
《個体識別――失敗》
《観測者権限との競合を確認》
俺は目を見開いた。
観測者。
ようやく。
その言葉に繋がる何かが、目の前に現れた。
「お前が……観測者か?」
俺が聞く。
仮面の人物はしばらく沈黙した。
そして。
初めて口を開いた。
「違う」
男とも女とも分からない声。
妙に平坦で。
感情がない。
「私は、観測する側ではない」
一歩。
こちらへ近づく。
リリアが剣を構えた。
「止まりなさい」
だが、そいつは止まらない。
「私は――」
また一歩。
その瞬間。
俺の目の前に、新しい表示が出た。
《特殊イベントが発生しました》
《名称:世界の異物》
《推奨Lv:――》
《討伐条件:――》
《報酬:――》
全部。
空欄。
いや。
違う。
最後に一つだけ。
文字が追加された。
《敗北条件:レオン・ヴァルハルトの死亡》
「は?」
俺がそう呟いた直後。
仮面の姿が消えた。
「レオン!」
カイルの声。
反射的に身体を捻る。
次の瞬間。
――ギィンッ!
俺の首があった場所を、黒い刃が通過した。
速い。
見えなかった。
俺は床を転がりながら距離を取る。
そこへカイルが踏み込んだ。
「《聖閃》!」
白銀の剣閃。
勇者系統の主力スキル。
現時点なら並のボスくらいならHPを大きく削れる。
直撃。
したはずだった。
だが。
「……嘘だろ」
カイルが硬直する。
仮面の人物は片手で剣を受け止めていた。
素手で。
HPバーすら出ていない。
「離れろ!」
俺が叫ぶ。
同時に地面を蹴る。
《影歩》。
一気に背後へ。
短剣を振り抜く。
《簒奪解析さんだつかいせき》
相手の能力を読む。
何か一つでもいい。
スキル。
耐性。
構造。
情報を寄越せ。
《解析中――》
《解析中――》
《解析中――》
遅い。
今までこんなことはなかった。
そして。
仮面がこちらを向いた。
まずい。
《解析成功》
来た!
《対象名称:管理代行体》
《Lv:測定不能》
《所属:――》
《権限階級:第二位》
《目的――》
そこまで表示された瞬間。
視界が赤く染まった。
腹に衝撃。
身体が浮く。
何をされた?
理解するより先に壁へ叩きつけられた。
「ぐっ……!」
肺の空気が全部抜ける。
HPが一気に減った。
たった一撃。
なのに。
半分近い。
「レオン!」
リリアの声。
二人が仮面へ向かう。
「待て!」
俺は痛む身体を無理やり起こした。
違う。
こいつ。
敵じゃない。
いや、敵ではある。
だが。
ただ倒すために配置された敵じゃない。
表示された情報。
《管理代行体》。
そして目的。
途中で途切れた最後の一行。
そこに。
一瞬だけ見えた。
《目的:修正》
修正。
何を?
そんなの決まっている。
俺は自分の名前が表示された敗北条件を見る。
ゲームでは死ぬはずだった人間。
本来のシナリオから外れた存在。
世界補正対象。
そして今。
同期率を狂わせ続けている異物。
「……俺か」
仮面が動きを止める。
初めて。
こちらの言葉に反応した。
「そうだ」
ぞくり、と背筋が冷えた。
「お前たち外部記憶保持個体の出現は、許容範囲内だった」
カイルの表情が変わる。
「俺たちが来るのは想定内……?」
「転移。転生。記憶混入。複数形式を確認済み」
淡々と。
とんでもないことを言いやがる。
俺たちは特別じゃない。
少なくとも。
初めてじゃない。
仮面が俺を指差した。
「だが、お前は異なる」
「……何が」
「レオン・ヴァルハルト」
名前を呼ばれた瞬間。
空間全体が震えた。
青白い炎が一斉に揺れる。
初めて。
止まっていた炎が。
「お前という個体は、本来――」
嫌な予感がした。
聞くな。
頭のどこかがそう言っている。
それでも。
耳を塞ぐことなんてできなかった。
仮面の人物は言った。
「この世界に存在していない」
――は?
「何を……」
「死亡するはずだった、ではない」
一歩。
近づいてくる。
「途中退場する予定だった、でもない」
さらに一歩。
「レオン・ヴァルハルトという人間そのものが――」
白い仮面が。
俺の目の前で止まった。
「第七世界の正規シナリオには存在しない」
思考が止まった。
俺は。
ゲームでレオンを知っていた。
最弱貴族。
序盤で死ぬ悪役。
だからこそ。
この身体に転生したと思っていた。
なのに。
存在しない?
だったら。
俺が知っているゲームのレオンは。
いったい。
何なんだ。
その瞬間。
視界の中央に。
今まで一度も見たことのない、金色のウィンドウが開いた。
《最上位権限からの介入を確認》
《管理代行体への強制停止命令》
仮面の人物が。
初めて後ずさった。
「――なぜ」
空間が軋む。
そして。
新しいメッセージ。
たった一行。
《対象個体レオン・ヴァルハルトへの修正を禁止します》
続いて。
もう一行。
《理由:当該個体は管理者権限候補です》
「…………は?」
今日何回目だよ。
その言葉。
そして俺が固まっている間に。
さらに追い打ちをかけるように。
最後の通知が表示された。
《シナリオ同期率:99%》
《最終同期まで――残り1%》
その下。
赤い文字。
《最終同期完了時、第七世界は不可逆フェーズへ移行します》
……おい。
ちょっと待て。
一パーセントって。
それ。
もうほとんど――。
「終わりじゃねえか」
俺の呟きに答える者は。
誰もいなかった。




