第28章 学院長室にいるもの
学院中央棟、最上階。
学院長室まで――二百十八メートル。
たったそれだけの距離なのに、妙に遠く感じた。
「……原初管理者、か」
俺は歩きながら、さっき第零管理室で見た情報を頭の中で整理していた。
世界観測。
時間逆行。
シナリオ補正。
個体生成。
そして――完全初期化。
この世界をゲームとして考えるなら、どれも管理者権限としては理解できる。
理解はできるが。
最後の一つだけは、明らかに意味が違う。
完全初期化。
つまり。
「世界そのものを、最初からやり直せる……ってことか」
俺の呟きに、隣を歩いていたエリシアが僅かに顔を曇らせた。
「兄様」
「分かってる。まだそう決まったわけじゃない」
そう答えながらも、俺自身はほぼ確信していた。
七度の巻き戻し。
第一周回以前の記録。
そして、エリシアに残されていた《管理者バックアップ個体》という認証。
ここまで来て、ただの設定ミスでした、なんてオチはない。
この世界では実際に何度も時間が巻き戻されている。
そして。
その上にさらに――。
世界そのものを消してやり直せる奴がいる。
「レオン」
後ろからカイルの声が飛んできた。
「一つ聞いていいか」
「何だ」
「その……完全初期化ってやつが使われたら、どうなるんだ?」
「知らん」
「即答かよ」
「知ってたら苦労してねえよ」
ゲーム時代の《ECLIPSE ONLINE》に、そんなシステムは存在しなかった。
少なくとも。
プレイヤーに公開されていた情報には。
ただし。
仮に言葉通りなら。
この世界。
人間。
魔族。
街。
国。
俺たちの記憶。
全部まとめて。
無かったことになる。
「……最悪だな」
カイルが小さく吐き捨てる。
「ああ」
だからこそ。
その権限を持つ存在が学院長室にいるというのなら、無視するわけにはいかない。
俺たちは中央棟の階段を上がった。
普段なら生徒で騒がしい建物だ。
だが、最上階に近づくにつれて人気がなくなっていく。
四階。
五階。
そして六階。
最上階。
階段を上がりきったところで、リリアが立ち止まった。
「待って」
全員の足が止まる。
「どうした?」
「……魔力の流れがおかしい」
リリアが廊下の先を見つめている。
俺もそちらを見る。
長い廊下。
左右に窓。
奥には、大きな両開きの扉。
学院長室。
見た目だけなら何の変哲もない。
だが。
俺には分かった。
「結界か」
「たぶん。でも、普通の結界じゃない」
リリアが眉を寄せた。
「魔力を遮断してるんじゃない。むしろ逆。ここだけ……周囲から切り離されてるみたい」
「空間隔離……?」
エリシアが呟く。
その瞬間だった。
視界の端に文字が浮かんだ。
《警告》
《管理領域を検出》
《現在地:管理者専用領域》
《一般個体の侵入は推奨されません》
「……おいおい」
思わず笑いそうになる。
学院長室の前だぞ。
どんな校長だよ。
いや。
学院長か。
「やっぱり間違いない」
俺は扉の向こうを見た。
「いるぞ」
緊張が走る。
カイルが剣の柄に手を置き、リリアが杖を握り直す。
エリシアも黙って俺の隣に立った。
俺は扉へ近づく。
残り十メートル。
九。
八。
七――。
《警告》
《原初管理者との接触可能距離に到達》
《管理者候補個体を確認》
《個体名:エリシア・アルヴェイン》
《随伴個体を確認》
《個体名:レオン・アルヴェイン》
……随伴個体。
俺の扱い雑じゃね?
一瞬そう思ったが。
続いて現れた表示を見て、その考えは吹き飛んだ。
《ERROR》
《個体情報に不整合を検出》
《レオン・アルヴェイン》
《登録情報と魂情報が一致しません》
「……」
やっぱりな。
墓守にも言われた。
アルヴェインの血を引いている。
だが、中にいるお前は誰だ、と。
つまり。
この世界の管理システムから見ても、俺は異物なんだ。
「兄様?」
「何でもない」
エリシアにはまだ言わない。
少なくとも今は。
俺は学院長室の扉の前まで来た。
ノックする。
コン、コン。
返事はない。
もう一度。
コン、コン。
「……入るぞ」
「普通そこで入るのか?」
カイルが小声で言う。
「じゃあ帰るか?」
「いや、それはそれで困る」
「だろ」
扉に手をかける。
鍵は。
――開いていた。
嫌な予感しかしない。
ゆっくり押す。
ギィ……。
重たい音と共に扉が開いた。
学院長室。
広い。
中央に応接用のソファ。
壁一面を埋める本棚。
奥には巨大な机。
その背後には学院全体を見渡せる大きな窓。
そして。
机の向こうに、一人の老人が座っていた。
白い髪。
長い髭。
深い皺。
いかにも「魔法学院の学院長です」と言いたげな見た目。
俺にも見覚えがある。
「……学院長」
エルド・グランヴェル。
王立アストリア魔法学院学院長。
ゲームでも登場するNPCだ。
序盤ではほとんど出番がない。
だが終盤。
王都防衛戦では単独で上位魔族を二体撃破する化け物。
推定レベルは八十以上。
敵対したい相手ではない。
「ようこそ」
エルド学院長は静かに口を開いた。
「待っておったよ」
その声は穏やかだった。
敵意もない。
殺気もない。
なのに。
背中に汗が流れた。
学院長の視線はカイルでもリリアでもない。
エリシアでもない。
真っ直ぐ。
俺を見ていた。
「……俺を?」
「そうじゃ」
老人が微笑む。
「正確には、お主がこの世界に現れてからずっと、な」
空気が凍った。
「……何?」
俺の手が反射的に剣へ伸びる。
だが学院長は気にした様子もない。
「構えずともよい。少なくとも今ここで、お主らと争うつもりはない」
「なら説明してもらおうか」
「構わぬ」
学院長はゆっくり立ち上がった。
その瞬間。
《警告》
《高位管理権限を検出》
《対象識別中――》
文字が高速で切り替わる。
《識別失敗》
《再試行》
《識別失敗》
《対象の管理者情報が秘匿されています》
初めて見る表示だった。
このシステムですら。
学院長を読めない。
「……あんた、何者だ」
俺が問う。
学院長は少し考えるように目を細めた。
「その問いには、二つの答えがある」
「二つ?」
「この肉体の名は、エルド・グランヴェル。この学院の学院長。それは間違いない」
そこで。
老人の表情が消えた。
「だが――中にいる者の名は、とうの昔に失った」
ゾクリ。
背筋を何かが走った。
中にいる者。
墓守と。
同じ言い方。
「まさか……」
学院長の目が。
僅かに金色へ変わった。
同時に。
世界が止まった。
「――っ!?」
風が止まる。
カーテンが止まる。
舞っていた埃が空中で静止する。
後ろを見る。
カイルも。
リリアも。
動いていない。
「エリシア!」
「兄様……!」
動いている。
俺とエリシア。
そして学院長だけ。
「何をした」
「時間を止めたわけではない」
学院長が答える。
「この部屋を、世界の時間軸から僅かに外しただけじゃ」
「十分化け物だろ」
「褒め言葉として受け取っておこう」
老人が笑う。
だが俺は笑えない。
エリシアが俺の袖を握る。
学院長はそんなエリシアを見た。
その目には敵意ではなく。
どこか。
懐かしむような色があった。
「ようやくここまで来たか」
「……私を知っているんですか?」
「知っておる」
学院長は即答した。
「お主が生まれるより、ずっと前からな」
「……え?」
「エリシア・アルヴェイン。それは今のお主の名じゃ」
学院長が手を上げる。
すると。
空中に光が集まった。
一枚の半透明な画面が現れる。
そこに映っていたのは。
銀髪の女。
第零管理室で見た。
あの女だ。
そして、その隣に。
少女が立っている。
銀色の髪。
青い瞳。
顔立ちは――。
「……私」
エリシアが呟いた。
違う。
少し幼い。
だが間違いなくエリシアだ。
映像の中で、銀髪の女が少女の頭を撫でている。
音声は聞こえない。
やがて映像が乱れた。
そして。
少女が光の中へ消えていく。
《管理者バックアップ生成完了》
《記憶情報を封印》
《人格情報を保護》
《個体再配置を開始》
《次期周回への転送――成功》
エリシアが言葉を失う。
俺も。
何も言えなかった。
「……これが」
ようやく声を出す。
「第一周回以前の記録か?」
「そうじゃ」
学院長が頷く。
「正確には――」
一瞬。
間が空いた。
「この世界がまだ“ゲーム”になる前の記録じゃ」
「……は?」
意味が理解できなかった。
いや。
言葉の意味は分かる。
だからこそ。
理解したくなかった。
「ゲームになる前?」
「そうじゃ」
学院長は俺を見る。
「お主が知る《ECLIPSE ONLINE》は、この世界を元に作られたものではない」
老人の金色の瞳が光る。
「逆じゃ」
俺の心臓が大きく鳴った。
「この世界の方が――《ECLIPSE ONLINE》を元に作られた」
沈黙。
何を言っている。
ゲームの世界に転生した。
俺はずっとそう思っていた。
だが。
違う?
ここはゲーム世界ではない?
「……じゃあ、ここは何なんだ」
学院長は静かに答えた。
「再現世界」
知らない言葉。
「ある目的のために、《ECLIPSE ONLINE》の世界情報を基礎として構築された、独立世界じゃ」
「誰が作った」
俺が聞く。
「原初管理者か?」
老人は。
ゆっくり首を横に振った。
「違う」
「なら誰だ」
学院長が俺を見つめる。
その表情から。
初めて笑みが消えた。
「それを知る前に、お主は一つ知らねばならん」
「何を」
「なぜ七度も世界が巻き戻されたのか」
エリシアが息を呑む。
学院長は続けた。
「七度の時間逆行は、失敗ではない」
「……?」
「世界が滅びたからでもない」
老人の声が低くなる。
「ある一人の人間を探すために行われた」
嫌な予感がした。
ものすごく。
嫌な予感が。
「誰を探してた」
学院長は答えなかった。
ただ。
俺を見る。
それだけで。
答えは十分だった。
「……俺?」
学院長の口が開く。
「正確には」
金色の瞳が、俺の奥を見る。
肉体ではない。
もっと深いところ。
魂を。
「レオン・アルヴェインではない」
背中を冷たい汗が伝った。
「その身体の中にいる――」
世界が。
一瞬だけ。
ノイズのように歪んだ。
《緊急警告》
《未承認情報へのアクセスを検知》
《管理者干渉を確認》
《完全初期化権限――起動準備》
「なっ……!」
学院長の表情が変わる。
初めて。
明確な焦り。
「早すぎる……!」
《権限所有者からのアクセス》
《対象座標を固定》
《第零管理室》
《学院中央棟最上階》
《対象個体――》
文字が乱れる。
そして。
最後の一行が表示された。
《レオン・アルヴェインを確認》
直後。
学院長室の扉が。
三回。
叩かれた。
コン。
コン。
コン。
誰も動かない。
世界の時間から切り離されたこの部屋で。
外から。
ノックが聞こえた。
学院長が扉を見る。
その顔から血の気が引いていた。
「……まさか」
「誰だ」
俺が聞く。
学院長は答えない。
扉の向こうから。
女の声がした。
「見つけた」
聞いたことのない声。
なのに。
なぜか。
俺はその声を知っている気がした。
「ようやく――」
扉が。
ゆっくりと開いていく。
「八周目のあなたに会えた」
《緊急クエスト更新》
《生存してください》
《制限時間――》
《00:09:59》




