俺が俺であることに、証明なんていらない
第20章 俺が俺であることに、証明なんていらない
音が消えた。
ついさっきまで王都を揺らしていた衝撃も、石畳を削っていた黒い風も、何もかもが嘘だったみたいに静まり返っている。
俺の目の前には、もう一人の俺――《正規個体》が立っていた。
いや。
立っている、という表現も少し違う。
身体の輪郭はところどころ透け、肩口から黒い粒子が風に溶けるように剥がれ落ちている。胸には俺がつけた傷が残り、その周囲から細い亀裂が全身へと広がっていた。
それでも、顔だけは俺と同じだった。
「……終わりか?」
問いかけると、正規個体はしばらく俺を見つめた。
感情らしいものはない。
少なくとも、最初はそう思った。
だが。
「否」
その声は、初めて少しだけ人間らしく聞こえた。
「排除処理は失敗した」
目の前に半透明の文字が浮かぶ。
《特殊クエスト――存在証明》
《判定処理中……》
《存在優先度を再計算》
《レオン・アルヴェイン》
《正規個体:50》
《異物個体:50》
「……まだ五分五分かよ」
思わず眉をひそめる。
あれだけやってこれか。
俺は片膝をついた。正直、もう指一本動かすのもきつい。身体中が痛いし、魔力もほとんど残っていない。
もう一回やれと言われたら、たぶん無理だ。
少し離れたところでは、カイルも剣を地面に突き立てながら荒い息を吐いている。
「おい、レオン」
「なんだよ」
「五割残ってるぞ」
「見りゃ分かる」
「第二ラウンドとか言うなよ」
「それ俺が一番聞きたくねえ」
そこで。
「ない」
正規個体が言った。
俺とカイルが同時に顔を上げる。
「戦闘継続の必要性は消失した」
「……どういう意味だ?」
正規個体は自分の手を見る。
指先が、消え始めていた。
「存在優先度とは、肉体の所有権ではない」
その言葉と同時に、表示が変わる。
《再定義を開始》
《正規性判定――破棄》
《世界内存在履歴を参照》
《対象:レオン・アルヴェイン》
次々と文字が流れていく。
《第七世界における生存時間》
《第七世界における人間関係》
《第七世界における行動履歴》
《第七世界における因果干渉》
《対象個体の自己認識》
そして。
《周辺存在による認識》
「周辺存在……?」
俺が呟いた瞬間だった。
「お兄様!」
屋敷の方から声が飛んできた。
振り返る。
アルバートが止めるより早く、エリシアがこちらへ走ってくる。
「エリシア! 来るな!」
怒鳴ったが遅い。
あいつは俺のところまで走ってくると、そのまま勢いよく抱きついてきた。
「ぐっ……!」
「お兄様!」
「い、痛い! 今それ結構痛い!」
「知りません!」
泣いていた。
思い切り。
服に顔を押しつけながら、子供みたいに泣いている。
少し遅れてアルバートがやって来て、俺の前で深く頭を下げた。
「……ご無事で、本当に何よりでございます」
その声も、わずかに震えていた。
さらに。
「レオン」
リリアが歩いてくる。
額から血を流し、服もところどころ破れている。それでも蒼い瞳は、まっすぐ俺だけを見ていた。
「勝ったんだよね?」
「……たぶん」
「じゃあ、それでいい」
リリアは一度だけ笑った。
その瞬間。
《周辺存在による認識――確認》
《エリシア・アルヴェイン:兄》
《アルバート:主人》
《リリア:レオン》
《カイル・アストレア:レオン》
「おい」
カイルが表示を見ながら微妙な顔をする。
「俺だけ雑じゃないか?」
「知らねえよ」
《存在情報を更新》
数字が動いた。
《正規個体:50 → 0》
《現存個体:50 → 100》
一瞬。
誰も声を出さなかった。
俺も、意味を理解するまで少し時間がかかった。
「……は?」
正規個体を見る。
身体の崩壊が、一気に進んでいた。
「待て」
俺は立ち上がろうとして、膝をつく。
「お前……消えるのか?」
「正規情報としての役割を終了する」
「いや、そうじゃなくて」
自分でも、何を言いたいのか分からなかった。
こいつは俺を殺しに来た。
俺の身体を奪おうとした。
何度も俺を殺しかけた。
なのに。
目の前から消えようとしている自分と同じ顔を見ていると、どうにも後味が悪かった。
正規個体はそんな俺を見て、ほんのわずかに首を傾げた。
「なぜ気にする」
「……知らねえよ」
「私はお前を排除しようとした」
「分かってる」
「第一世界から第六世界までの失敗記録を基礎として形成された、ただの残存情報だ」
「それも聞いた」
「ならば問題はない」
「だから、そういうことじゃねえんだよ」
俺は息を吐いた。
こいつはたぶん、分からない。
自分が消えることを死だと思っていない。
そもそも生きているという認識すら怪しい。
けれど。
第一世界。
第二世界。
第三世界。
第四世界。
第五世界。
第六世界。
そこで死んだ《レオン・アルヴェイン》。
その全部が、こいつの中にある。
だったら。
「お前もレオンなんだろ」
初めて。
正規個体の表情が動いた。
ほんの少しだけ。
目を見開いた。
「違う」
「いや、同じ顔してんじゃん」
「私は正規情報であり――」
「そういう話じゃねえって」
俺は笑った。
「俺も最初、自分が偽物なんじゃないかって思ったよ。でもさ」
エリシアが腕を掴んでいる。
リリアがそばにいる。
アルバートがいる。
カイルもいる。
そして俺は、この世界で自分の意思で戦った。
死ぬはずだった人間を助けた。
知らなかった人間と出会った。
ゲームになかったものを見た。
ゲーム通りにならないことに焦って、それでも前に進んできた。
「どっちが本物とか、もうどうでもいいんだよ」
《特殊クエスト――存在証明》
その文字を見上げる。
「俺が俺であることに、証明なんていらねえ」
直後。
パリン、と。
ガラスが割れるような音がした。
《特殊クエスト――存在証明》
《クエスト条件が消失しました》
《勝敗による存在判定を中止》
《対象個体の自己定義を優先》
《登録完了》
《レオン・アルヴェイン》
「……は?」
カイルが声を漏らす。
俺も同じだった。
そして。
正規個体が初めて笑った。
ほんの少しだけ。
間違いなく。
俺と同じ顔で。
「そうか」
身体のほとんどが光へ変わっていく。
「それが、第七世界の答えか」
「おい、待て」
俺が手を伸ばす。
その瞬間。
正規個体も手を伸ばした。
触れた。
――はずだった。
次の瞬間。
大量の情報が頭の中へ流れ込んできた。
「っ……!?」
第一世界。
俺が死ぬ。
第二世界。
俺が死ぬ。
第三世界。
リリアが死ぬ。
第四世界。
カイルが死ぬ。
第五世界。
王都が燃える。
第六世界。
何も残らない。
そして。
そのすべてを。
高い場所から見下ろしている何か。
人じゃない。
神でもない。
巨大な光の輪。
無数の文字列。
世界そのものを覗き込む、目。
《観測者》
「――っ!」
意識が戻る。
正規個体はもう、ほとんど消えていた。
「今のは……」
「記録」
声が遠くなる。
「第一世界から第六世界まで、共通して存在したもの」
「観測者か?」
「名称は不明」
正規個体の顔が崩れていく。
それでも最後に、はっきりと言った。
「だが一つだけ訂正する」
「……何を?」
「お前は、第七世界で初めて生き残ったレオンではない」
背筋が冷えた。
「は?」
「第七世界は――」
そこで。
声が途切れた。
正規個体の身体が、完全に光へ変わる。
「待て!」
手を伸ばした。
けれど、掴めない。
光は夜空へ昇り、そして消えた。
代わりに。
最後の文字が目の前へ表示される。
《正規情報の統合を確認》
《世界情報を更新》
《隠匿情報の一部が解放されました》
《第七世界》
《現在周回数:――》
文字が乱れる。
ノイズ。
そして。
ほんの一瞬だけ。
数字が見えた。
《第七世界》
《現在周回数:8》
「……八?」
俺の声に、カイルが振り返る。
「どうした?」
答えられなかった。
第七世界。
俺はずっと。
七番目の世界だと思っていた。
だけど。
もし。
第七世界という名前が。
世界の順番を意味していないとしたら。
《警告》
赤い文字が浮かぶ。
《閲覧権限を超過しました》
《観測者が対象個体を検知》
《優先観測対象を更新》
《レオン・アルヴェイン》
《危険度――再評価》
そして最後に。
今まで一度も見たことのない表示が現れた。
《観測者より通知》
《次は、学院で会いましょう》
「…………」
俺は黙った。
カイルが横から表示を覗き込む。
そして。
「レオン」
「なんだ」
「学院、行くのやめない?」
「奇遇だな」
俺は頭を抱えた。
「俺も今、めちゃくちゃ行きたくなくなった」
三日後。
俺たちは。
王立アストレア学院へ入学する。




