鈴木を思い出す
『この場所でのお煙草はご遠慮ください』
5月のショッピングモール。
テラスにある休憩所のテーブルには、そう書かれたプレートが貼られていた。
よくある注意書きだ。
それを見て、私は鈴木のことを思い出した。
彼女は前の会社の同期だった。
「あのさあ、これっておかしくない?」
ある日のお昼の帰り、会社近くのビルの壁に張られたこの文を指さして鈴木は言った。
「ん? どこが?」
「だってさ、遠慮って相手が何かを勧めてくれないとできないじゃん。
この場合だとさ、『お煙草どうぞ』って言われてないんだから、遠慮するのは不可能だよね?」
「……そう言われればそうか」
「でしょ?
だいたいさ、遠慮って自分からするものであって、誰かに頼まれるものじゃないよね?
考えられるとしたら、一旦勧められてから遠慮するのがしきたり、的なやつくらいじゃない?
京都みたいなの。知らないけど」
「よし。クレーム入れよう」
「あははは。ほんとに入れそうで怖いんだけど」
その話はそれで終わったんだけど、こういう変なところに目をつけるのは実に鈴木らしかった。
もし私が喫煙者だったら、そのプレートの近辺で煙草を吸って、注意しに来た警備員に「いえ、勧められていないので遠慮できないんですよ」とかやってみたいところだ。
鈴木と仲良くなったきっかけは、オリンピックだった。
日本がメダルを取って、同じ部署の男性社員が日本チームの素晴らしさを大声で話しているのを聞いて、彼女はボソッと呟いたのだ。
「知ってる人でもないのに」
隣で聞いていて、思わず「そっちの感想?オリンピックじゃなくて」って話しかけてしまった。
鈴木はキョトンとした顔でこっちを見た後、やっと自分の呟きに対するものだとわかると、アワアワと言い訳をはじめた。
日本を応援してないわけじゃない。
他の国の選手も応援する。
だって自分じゃできないことをしてるから。
友達が出てるなら国に関係なく全力で応援したい。
でも誰も出てないから特に応援する気になれない。
「それ、結局応援してなくない?」
「え? あ、ほんとだ。あははは、オリンピックって変だね」
変なのはお前だ。
その後なんだかんだでよく話すようになり、お互いを呼び捨てにするようになった。
鈴木は、なんというか、世界に対する興味が薄かった。
ないわけではない。まんべんなく薄いのだ。
流行っているゲームに手を付けてみるけど、のめり込むことはなく途中でやめる。
絶対に食べたいものもなく、一緒にごはんに行っても一番多いのは「私もそれにする」だった。
マヨネーズのメーカーもまったく気にしない。
当時の私は色んなことに腹を立てるお年頃で、鈴木にその怒りをぶちまけていた。
鈴木は特に嫌がることもなく、うんうんとその話を聞いてくれた。
いつも聞いてもらって悪いねって謝ったら、楽しいからもっと聞きたいとか意味不明なことを口走った。
楽しいのかよ!って思わず突っ込んでしまった。
鈴木は私と違って、全然怒らなかった。
本人が言うには後から腹が立つことはたくさんあるけど、腹が立った時には対象がいなくなっているので、パワーが続かないのだそうだ。
瞬発力を鍛えていつか激怒するんだ!と拳を握っていた。そんなの目指さなくていいから。
一度「幸せだと思う時ってどんな?」って聞いたことがある。
鈴木はちょっと考えてこう答えた。
「晴れた夏の日にベランダに洗濯物を干して、クーラーの効いた部屋の中からそれを眺めている時かな」
なんか腑に落ちた。
こいつは、手の届く範囲の何も起こらない狭い世界で、その狭さに満足してるんだ。
世界の外のヤツが何を言おうが自分には関係ない。だから怒る必要がないんだな。
でももしその世界を壊そうとするヤツがいたら、きっとボコボコにするんじゃないだろうか。
私はどうやらその世界の一員らしいので、その時が来たら一緒にぶん殴ってやろうって思った。
鈴木は割と仕事ができた。
言われたことはカッチリこなすタイプで、新しい発想はないけど、時々変な工夫をした。
資料の見やすさを上司に評価され、いつの間にかチームの資料作成担当みたいになっていた。
でも本人にしてみれば、それは不本意だったらしい。
手を抜くのは嫌で、納得できなければ残業もするけど、できるなら定時で帰りたい。
だからあまり仕事を振らないでほしい。
と、繁忙期明けに愚痴をこぼしていた。
鈴木の趣味らしい趣味と言えば、マンガだった。
私はニッチな作品を探すのが好きで、お気に入りが見つかると欠かさず鈴木に紹介した。
鈴木は最初の頃は全部読んでいたが、どうもお気に召さなかったらしく、そのうち「大牟田のお勧めは高度過ぎるからなあ」とブクマだけして読まなくなった。
最後に読んでくれたのは『愛され少女は選べない』だったと思う。
ものすごい駄作で、その駄作っぷりが面白かったのだが、あっけなく打ち切りになった作品だ。
その打ち切りのドタバタで作者と編集者がSNS上で暴露合戦を繰り広げていて、それと合わせて読むとすごく面白いよって言ったら、珍しく鈴木が興味を示したのだ。
感想が毒舌すぎて、大笑いさせてもらった。
「愚蒙 」っていう単語をはじめて聞いた。
鈴木が事故で亡くなったのはそのすぐ後のことだ。
もう6年経つ。
急にいなくなったのはすごくショックだった。
お葬式から帰って自分でもびっくりするくらい泣いた。
でも、スマホの写真の中の鈴木はあんまり気にしてなさそうだった。
「失敗しちゃったよー、あははは」
とか言ってそうな気がして、泣きながらちょっとだけ笑った。
私は魂の存在を信じない。
人間だろうと細菌だろうと、生命はただの自然現象で、死んだらそれで終わりだ。
6年経てば、悲しさも消えてゆく。
こうして、鈴木は少しずつ思い出の中に歩み去ってゆくのだろう。
それでいいのだと思う。
でも――。
ねえ鈴木。世の中はほんと色々ままならないね。
初夏の青空を見上げる。
テラスを風が吹き抜けてゆく。
「遠慮」の注意書きを見るたびに、きっと何年経っても私はあなたを思い出してしまう。




