毒花
雨は止んでいた。
街は洗われたみたいに静かで、アスファルトの隙間に残った水たまりだけが、鈍い空を映している。
男は花屋の前で立ち止まった。
ガラス越しに見える白い指先が、ひとつひとつ丁寧に花弁を整えている。
あの日から、もう四度目だった。
花を買う習慣なんてない。
部屋に飾る趣味もない。
切り花は、血より早く枯れる。
そんなことを知っている男が、なぜここへ足を運ぶのか、自分でもうまく説明できなかった。
ただ、彼女のいる店の前を通り過ぎるたび、胸の奥で何かが微かに軋むのだ。
それは銃を構えるときの緊張とは違う。
もっと柔らかく、もっと厄介な痛みだった。
扉を押す。
小さなベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
彼女が顔を上げた。
その声を聞くだけで、背中にまとわりつく黒い影が一瞬だけ輪郭を失う。
「今日は何を?」
男は店内を見回した。
色とりどりの花が並ぶ中、目に留まったのは、隅の棚に置かれた小さな白い花だった。
俯くように咲く、鈴のかたち。
「それを」
彼が指した先を見て、彼女が少し笑う。
「鈴蘭ですね」
白い指先が、そっと鉢を持ち上げた。
「可愛いでしょう」
そう言ってから、彼女はいたずらっぽく目を細める。
「でも、毒があるんですよ」
その言葉に、男の指先が止まった。
毒。
それは彼にとって、あまりにも馴染み深い響きだった。
誰にも気づかれず、静かに命を奪うもの。
苦しみすら与えず、ただ確実に終わらせるもの。
何も知らないような顔で、彼女は花弁を撫でている。
「綺麗なものほど、こわいのかもしれませんね」
彼女はそう呟いてから、
隣の鉢をそっと持ち上げた。
「こちらはトルコギキョウ。リシアンサスとも呼ばれるんです」
彼女の説明を、上の空で聞きながら、男は何も言えずその花を選ぶ。
彼女の言葉が、胸のどこか深い場所へ細い針のように沈んでいく。
会計を済ませ、鉢を受け取る。
そのとき、不意に彼女の指が彼の手に触れた。
ひやり、と。
わずかな接触。
なのに、それだけで全身が強張る。
彼女は目を瞬かせたあと、小さく首を傾げた。
「……冷たいですね」
男は咄嗟に手を引いた。
「悪い」
「ううん」
彼女は微笑んだ。
責めるでもなく、探るでもなく。
ただ静かに彼を見つめる。
その眼差しに、男は妙な居心地の悪さを覚えた。
見透かされている気がした。
何も知らないはずなのに。
いや——
何かを、勘づいているのかもしれない。
「また来てくれますか」
帰り際、彼女が言った。
男は振り返る。
「次は、あなたに似合う花を選びます」
その言葉が、心臓の奥へ沈んでいった。
まるで抜けない弾丸みたいに。
―――
その夜。
男は標的の部屋にいた。
暗い寝室。
規則正しい寝息。
額へ向けた銃口。
いつもなら、何も感じない。
引き金を引けば終わる。
それだけだ。
だが今夜、指が動かなかった。
脳裏に浮かんだのは、
白い花ではなく、
白い指先だった。
——綺麗なものほど、こわいのかもしれませんね。
乾いた喉が、小さく鳴る。
男は初めて、引き金の重さを知った。
背中の黒い影が、またひとつ増える。
それなのに。
彼女の前に立つときだけは、それを隠し通したいと思った。
何人殺しても覚えなかった痛みが、胸の奥で静かに育っていた。




