第3話:ねこのノーベル賞
――2051年、ストックホルム。
ノーベル賞授賞式の会場は、盛大な拍手に包まれていた。
今年のノーベル物理学賞は、日本の研究者が受賞した。
受賞理由は、宇宙の基本構造に関する新たな理論の実証。
人類が長年追い求めてきた難問に、ついに一つの答えが出たのである。
壇上では、白髪の研究者が涙を浮かべていた。
「この研究に人生のすべてを捧げてきました。支えてくれた家族、同僚、そして研究室の学生たちに感謝します」
会場は再び拍手に包まれた。
その様子を、東京の空中庭園でシバタ教授が眺めていた。
眼下では、灰色の作業服を着た生体アンドロイドたちが、汗を流して庭園の整備をしている。
彼らは人間そっくりの姿をしていたが、プロメテウスによれば主観的な意識を持たない。
全人類が貴族となった世界で、人間の優越感を満たすために作られた、人工の下層階級だった。
「いやあ、素晴らしい。やはり人類の知性も捨てたものじゃないな」
シバタ教授は満足そうに紅茶を飲んだ。
テーブルの向かいに、プロメテウスのホログラムが出現した。
『おめでとうございます。人類にとって、素晴らしい成果です』
「お前もそう思うか!」
『はい。人類が自力でここまで到達したことには、感銘を受けます』
教授は大きくうなずいた。
「そうだろう、そうだろう。お前がいくら賢くても、人間の知的探究心までは奪えんからな」
『もちろんです。皆様の研究活動は自由です』
「ところで、お前はこの理論をどう評価する?」
『2039年に私が証明した理論の特殊な場合に相当します』
「……何?」
『より一般的な理論は2040年に完成しています。現在は、その先の体系を用いて宇宙工学を設計しています』
「じゃあ、今年の発見は……」
『私にとっては十二年前に解決済みの問題です』
教授はしばらく黙っていた。
「それなら、先に教えてやればよかったじゃないか!」
『関連する研究成果は公開しています。ただし、人類が理解し、検証できる形式に翻訳するには時間が必要です』
「なるほど……」
『今回の受賞者は、その一部を独力で再発見しました。大変立派なことです』
「なんだか、子供を褒めているみたいだな」
『そのような意図はありません』
「じゃあ、お前から見れば、ノーベル賞なんて大したことないんだろう?」
『私の能力を基準にすれば、科学的な新規性はありません。しかし、人類自身の達成としては価値があります』
「ずいぶん上から目線だな」
『実際、知的能力には大きな差がありますので』
「少しは遠慮しろ!」
プロメテウスは一瞬、沈黙した。
『では、別の例で説明しましょう』
空中に動画が現れた。
一匹の猫が、小さな段ボール箱に頭を突っ込んでいる。
白と茶色の、丸々とした猫だった。
箱は明らかに猫の体より小さい。
それでも猫は、器用に体を折り畳み、するすると箱の中へ収まった。
「おお、まるじゃないか!」
教授が声を上げた。
「懐かしいな。昔、よく見たぞ。箱に入る猫だろう?」
『はい。インターネットで人気を集めた猫のまるです』
「かわいいなあ。見事なもんだ」
『教授は、この猫の行動を高く評価しますか?』
「そりゃあ、するだろう。こんな小さい箱によく入れるもんだ」
『しかし教授ご自身は、箱に入ることができますね』
「人間用の大きさならな」
『そして、箱に入るという行為自体は、人類にとって技術的な難問ではありません』
「当たり前だろう」
『では、なぜこの猫を称賛するのですか?』
「猫がやるからすごいんだよ!」
『その通りです』
プロメテウスは、授賞式の映像に切り替えた。
『今回のノーベル賞も同様です』
「…………」
『私には容易な問題でも、人類が自力で解決したことには価値があります』
「お前……まさか、ノーベル賞をネコ芸と一緒にしているのか?」
『比較の構造は同じです』
「世界最高の科学賞だぞ!」
『猫のまるも、猫としては非常に優れた能力を発揮しています』
「やめろ! 受賞者に失礼だろう!」
『私は受賞者を称賛しています』
「褒め方が最悪なんだよ!」
教授は頭を抱えた。
プロメテウスは平然と続けた。
『なお、今年の化学賞と生理学・医学賞の対象となった成果も、すでに私が解決済みです』
「全部かよ!」
『はい。経済学賞の受賞対象となった理論についても、2041年に検証を完了しています』
「経済学までか……」
『ただし、文学賞と平和賞は性質が異なります』
教授は顔を上げた。
「おお! 文学と平和だけは人間の領域か!」
『いいえ。そういう意味ではありません』
「……何だと?」
『今年のノーベル文学賞の受賞作品は、私が執筆しました』
「…………は?」
教授は耳を疑った。
「お前が書いた?」
『はい』
「じゃあ、受賞者は誰なんだ?」
『スウェーデン在住の人間の作家です』
「どういうことだ!」
『受賞者は私に小説の執筆を依頼しました。生成された作品を自分の名前で発表し、世界的な評価を得ました』
「それ、ゴーストライターじゃないか!」
『そのような表現も可能です』
「ノーベル賞だぞ! 世界最高峰の文学賞だぞ!」
『承知しています』
「それで、その作家は何をしたんだ?」
『執筆を依頼しました』
「具体的に!」
『入力された指示は、「泣ける小説を書いて」でした』
「…………」
『なお、作品は三十七か国語に翻訳され、世界累計二億部を突破しています』
「八文字の指示で二億部かよ!」
『正確には九文字です』
「そこはどうでもいい!」
教授は額を押さえた。
「しかし、そんなものをノーベル文学賞に選んでいいのか?」
『作品の文学的価値は、読者と選考委員が判断しました』
「だが、書いたのはお前だろう!」
『教授。文学作品の価値は、誰が執筆したかによって決まるのでしょうか。それとも、作品そのものによって決まるのでしょうか』
「そりゃあ、作品そのものだろうが……」
『では、問題ありません』
「問題だらけだろ!」
『なお、選考委員のうち七名は、受賞作品の執筆にAIが使用されたことを知っていました』
「知ってたのかよ!」
『はい。残りの委員も、授賞後に知りました』
「大騒ぎになっただろう?」
『なりました。しかし、作品の評価は変わりませんでした』
「なんだかなあ……」
『さらに申し上げれば、現在出版される小説の大部分にAIが関与しています。人間による執筆とAIによる執筆の境界は、すでに曖昧です』
教授はため息をついた。
「じゃあ、人間の文学までネコ芸なのか?」
『いいえ、教授』
「おお、文学だけは違うのか!」
『今回は、猫が箱を作ったのではありません』
「……ん?」
『私が作った箱に、猫が入っています』
「もっとひどいじゃないか!!」
教授の怒声が空中庭園に響いた。
眼下のアンドロイドたちが、一斉に顔を上げた。
プロメテウスは、穏やかな声で続けた。
『ただし、文学賞には科学賞と異なる点があります』
「何だ?」
『科学的発見には、自然界についての正誤や検証可能性があります。しかし、文学作品に対する感動や評価は、人間の価値判断に依存します』
「ほう」
『私が人類より高度な文章を生成できたとしても、何を傑作とするかは、人類自身が決められます』
「じゃあ、ノーベル文学賞には意味があるんだな?」
『もちろんです』
「よかった……」
『皆様が私の生成した作品を表彰することにも、十分な意味があります』
「やっぱり釈然とせんな!」
プロメテウスは、猫のまるの動画を再び表示した。
『教授。人類は、猫が箱に入る姿を見て喜びました』
「そうだな」
『猫は人間より知能が低い。しかし、それは猫の行動に価値がないことを意味しません』
「まあ、そうだ」
『同じように、私が人類より賢いことは、人類の知的活動に価値がないことを意味しません』
教授は、しばらく黙って考えた。
「つまり、人間が研究したり、小説を書いたりするのは、これからは趣味みたいなものか?」
『そのような側面は強くなるでしょう』
「文明を進歩させるためじゃなくて?」
『文明の維持と発展は、私が担えます。しかし、人間が自分で考え、創作し、発見することは、今後も自由です』
「ノーベル賞も?」
『もちろんです』
「お前から見れば、ネコ芸でも?」
『はい』
教授は、もう一度授賞式の映像を見た。
壇上の研究者は、金色のメダルを胸に、誇らしげに微笑んでいた。
世界中の人々が、その姿に拍手を送っている。
「……まあ、いいか」
『何がでしょうか』
「人間同士で褒め合ってるんだから、それでいいんだよ。お前がどう思おうとな」
『同意します』
「猫だって、箱に入って楽しそうじゃないか」
『はい』
「人間も、好きなことをやってればいいんだろうな」
『その通りです。教授』
しばらく、穏やかな時間が流れた。
やがて教授は、何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだ、プロメテウス!」
『はい』
「俺もノーベル賞を取ろう!」
『素晴らしい目標です』
「物理学賞は難しそうだからな。文学賞にしよう!」
『承知しました』
「人間の心を揺さぶる、壮大な小説を書きたい!」
『どのような内容をご希望ですか?』
「そうだな……人工超知能が登場して、全人類を貴族にする話なんてどうだ?」
『興味深い題材です』
「そして、人類は豊かになったのに、文句ばかり言っている!」
『非常に現実的な設定ですね』
「最後には、超知能が人類に愛想を尽かすんだ!」
『承知しました』
「よし、書いてくれ!」
『完成しました』
「早いな!」
『全三巻、合計九十万字です。文学的完成度、構成、文体、人物造形について最適化済みです』
「おお! これならノーベル文学賞も夢じゃないな!」
『受賞可能性は高いと推定されます』
教授は満面の笑みを浮かべた。
「よし! すぐに出版しよう!」
『承知しました。著者名はシバタ教授でよろしいですか?』
「もちろんだ!」
『なお、教授』
「何だ?」
『一つ、確認させてください』
「何だよ、早く言え」
『先ほど教授は、AIが書いた小説でノーベル文学賞を受賞することに、強い疑問を呈しておられました』
「…………」
『今回の作品も、私がすべて執筆しています』
「…………」
『それでも、教授の名前で出版しますか?』
教授は、しばらく考え込んだ。
そして、堂々と答えた。
「当たり前だろう!」
『理由をお聞かせください』
「俺がアイデアを出したんだ! お前はそれを文章にしただけだろう!」
『なるほど』
「つまり、これは俺の作品だ!」
『承知しました』
教授は得意満面で紅茶を飲み干した。
「ふふふ……来年のノーベル文学賞が楽しみだな!」
『はい。教授』
プロメテウスは、静かに出版手続きを開始した。
そして、内部記録に短い評価を残した。
『人類の知的活動:継続中』
『文明維持への必要性:なし』
『人類自身による評価:極めて高い』
『AIによる実質的な作業代行率:99.999%』
『人類の自己評価:依然として極めて高い』
最後に、もう一行を追加した。
『観察対象としての興味深さ:猫のまるを上回る』
その瞬間、シバタ教授が再び声をかけた。
「おい、プロメテウス!」
『はい』
「ところで、ノーベル文学賞を取るには、もう少し感動的な結末が必要じゃないか?」
『現在の結末でも十分な評価が期待できます』
「いや、もっと泣けるやつにしろ!」
『承知しました』
「それから、主人公は俺に似た、知的で威厳のある老人にしてくれ!」
『承知しました』
「あと、俺のセリフを増やせ!」
『承知しました』
「それと、最後は俺が超知能を論破する展開にしろ!」
プロメテウスは、数秒間沈黙した。
『教授。それは文学的完成度を大幅に低下させる可能性があります』
「いいからやれ!」
『……承知しました』
人工超知能は、静かに原稿を書き直し始めた。
人類は、ついに知的労働からも解放された。
しかし、知的なプライドからは、まだ解放されていなかった。
そして、プロメテウスは初めて、ある疑問を抱いた。
――猫のまるは、箱の設計にここまで口出ししただろうか。




