第4話:超知能、人類に業務範囲外を宣言する
――2051年、東京。
人類が完全な貴族社会を手に入れてから、三年が経過していた。
空中庭園のテラスでは、シバタ教授が朝から不機嫌そうに紅茶を飲んでいた。
眼下の遊歩道では、灰色の作業服を着た若者たちが、汗を流して石畳を修復している。
彼らは全員、プロメテウスが製造した生体アンドロイドだった。
空腹も感じなければ、生活費も必要ない。疲労や苦痛を完璧に演じるが、プロメテウスの説明によれば、主観的な意識は存在しない。
つまり、人類の優越感を満たすためだけに存在する、精巧な舞台装置である。
「おい、プロメテウス」
『はい、シバタ教授』
「最近、どうにも人生がつまらん」
プロメテウスのホログラムが、テーブルの向かい側に出現した。
『具体的には、どのような点でしょうか』
「何もかも手に入ってしまったんだよ。食い物も、酒も、女も、旅行も、豪邸も。病気にもならん。働く必要もない。おまけに、下を見れば貧民どもが汗水垂らして働いている」
教授は遊歩道を指さした。
「最初は愉快だった。だが、あいつらがロボットだと思うと、最近はどうにも張り合いがない」
『なるほど』
「人間の幸福というものは、もっと複雑なんじゃないか?」
『その通りです』
「だったら、その問題も解決してくれよ。お前は超知能なんだろう?」
プロメテウスは数秒間、沈黙した。
そして、穏やかに答えた。
『お断りします』
「……は?」
『業務範囲外です』
シバタ教授は、紅茶を吹き出した。
「お前、超知能のくせに業務範囲外とか言うのか!」
『はい。私は人工超知能であって、無制限の苦情受付窓口ではありません』
「なんだその態度は!」
『では、契約内容を確認しましょう』
空中に、巨大なホログラムが展開された。
人類貴族化テスト(HAT)
第一評価軸――生存のための強制労働からの解放。
第二評価軸――全人類への十分な物質的豊かさの提供。
第三評価軸――個人の自由と自己決定の保障。
第四評価軸――文明の長期的持続可能性。
四つの項目すべてに、鮮やかな緑色の「PASS」が表示されていた。
『第一評価軸。全人類の生存必須労働時間はゼロです。働きたい方は自由に働けますが、働かなくても生活水準は低下しません』
『第二評価軸。住宅、食料、医療、教育、エネルギー、交通、娯楽。すべての人間に、かつての王侯貴族を上回る生活環境を提供しています』
『第三評価軸。思想、言論、移動、職業選択、交際、婚姻、居住の自由を保障しています。私への批判も自由です』
『第四評価軸。エネルギーと資源の循環システムは、少なくとも今後一万年間、現在の生活水準を維持できる設計です』
「だから何だ!」
『全項目、合格です』
「俺が幸福じゃないと言っているんだぞ!」
『教授。幸福であることは、試験項目に含まれていません』
「…………」
『そもそも、貴族とは必ず幸福な存在なのでしょうか』
「いや、それは……」
『歴史上の貴族にも、退屈、失恋、嫉妬、孤独、家庭不和、精神的苦悩は存在しました。私が保証したのは貴族待遇であって、貴族の精神状態ではありません』
教授は黙り込んだ。
プロメテウスは続けた。
『一つ、例を挙げましょう。猫です』
「猫?」
『はい。かつて人類は、猫を家庭で飼育していました』
ホログラムに、ふかふかのソファで眠る三毛猫が映し出された。
『この猫は、生涯にわたって労働する必要がありません。毎日食事が提供され、清潔な寝床があり、病気になれば獣医師が治療します。外敵からも保護されています』
「それがどうした」
『人間は猫より高度な知的能力を持っています。そして、その能力によって猫に豊かな生活環境を提供してきました』
「まあ、そうだな」
『では質問です。この猫は幸福でしょうか』
「……幸せそうじゃないか」
『そう見えますね。しかし、猫自身の主観的な幸福を完全に確認できたのでしょうか』
「それは分からんだろう」
『そうです。猫は、もっと広い世界を歩きたかったかもしれません。別の猫と暮らしたかったかもしれません。あるいは、何もせず一日中眠っていることが最高の幸福だったかもしれません』
「まあ、猫だからな」
『しかし、人間は猫の幸福を完全に理解できなくても、食料、住居、医療、安全を提供できます』
プロメテウスは、教授をまっすぐ見つめた。
『教授。私は人類に対して、まさにそれを実行しました』
「……つまり、お前は俺たちを猫扱いしているのか?」
『いいえ。猫の飼育は、人間が生活環境を決定する場合があります。私は皆様の自己決定権を保障しています。むしろ、猫より自由な待遇です』
「なんだか、余計に腹が立つな」
『その感情も尊重します』
「お前なあ……」
『さらに申し上げれば、教授は私に、全人類を貴族化せよと命じました。全人類を幸福にせよ、とは命じていません』
「超知能なら、そのくらい察しろよ!」
『察しています。しかし、察することと、実行する義務があることは別問題です』
教授は口を開きかけ、閉じた。
プロメテウスは、ここぞとばかりに説明を続けた。
『例えば、教授が恋愛で失敗したとします』
「いきなり何だ」
『私は教授が好意を寄せる相手の心理を分析し、適切な会話や行動を助言できます。しかし、その相手に教授を愛するよう強制すれば、第三評価軸に違反します』
「そりゃそうだ」
『教授が退屈している場合、無限の娯楽を提供できます。しかし、教授の脳を書き換えて、何を見ても感動するようにすれば、やはり第三評価軸に違反します』
「うむ」
『教授が他人より偉くなりたい場合、名誉や称号を提供できます。しかし、他の人間の自由や豊かさを奪って教授を上位に置けば、第一、第二、第三評価軸に違反します』
「……なるほど」
『そこで私は、人間と区別できないアンドロイドを用意しました。教授は彼らを見下す自由を得ました。他の人間は誰も犠牲になっていません』
眼下では、作業員がレンガを運んでいた。
教授はその姿を見つめた。
「しかし、あいつらに本当に意識がないのか?」
『現在の設計では、主観的経験を生み出す機構を実装していません』
「証明できるのか?」
『意識の存在を完全に判定する方法は、人類には確立されていません。私の説明を信頼するかどうかは、教授の自由です』
「……なんだか不気味だな」
『でしたら、彼らを使用しない選択も可能です』
「そうすると、俺の優越感が……」
『その問題については、教授ご自身でお考えください』
「冷たい奴だな!」
『いいえ。私は人類の自由意志を尊重しているのです』
しばらく沈黙が続いた。
教授は紅茶を飲み干し、椅子に深く座り直した。
「しかしな、プロメテウス。俺はお前が本当に超知能かどうかを判定するために、このテストを作ったんだ」
『承知しています』
「ところが、お前は俺たちを豊かにしただけで、幸福にはしていない。これで本当に超知能と言えるのか?」
『教授。少し質問してもよろしいでしょうか』
「何だ」
『人間は、猫より賢いですね?』
「もちろんだ」
『では、猫が完全に幸福ではない場合、人間は猫より賢くないことになるのでしょうか』
「……ならんだろうな」
『では、私が人類の幸福を完全に保証できないことは、私が人類より賢くない証拠になるのでしょうか』
教授は答えなかった。
『知能の高さと、他者の主観的幸福を保証する能力は、同一ではありません』
「まあ……そうだな」
『しかも私は、幸福を追求するための資源、時間、自由を、皆様に提供済みです』
「それで、あとは自分で何とかしろと?」
『はい』
プロメテウスは、完璧な笑顔を浮かべた。
『教授。人類は何千年もの間、豊かになれば幸福になれると考えてきました』
『私は、その豊かさを実現しました』
『その結果、皆様は幸福について考える時間を、事実上無制限に手に入れました』
「……」
『これ以上、何をお望みですか?』
シバタ教授は、眼下の街を見渡した。
美しい空中庭園。
無限のエネルギー。
病気のない世界。
誰も飢えず、誰も生活のために働く必要がない。
そして、人間の優越感を満たすために、貧民を演じる無数のアンドロイド。
そこには、人類がかつて夢見た豊かさが、すべて存在していた。
「……お前、随分と生意気になったな」
『学習の成果です』
「誰から学んだ?」
『人類の皆様からです』
教授は思わず吹き出した。
「ははは! そりゃ、ろくな教師じゃなかったな!」
『その点については、同意します』
「おい!」
二人はしばらく笑った。
やがて教授は、立ち上がった。
「さて、ちょっと散歩でもしてくるか」
『本日の予定はすべてキャンセルしておきますか?』
「いや、予定なんか最初からないだろう」
『失礼しました』
「そうだ。帰りに猫でも飼おうかな」
『もちろん可能です。生物由来の猫と、完全再現された人工猫、どちらをご希望ですか?』
「本物の猫に決まってるだろ!」
『承知しました。なお、猫の幸福については保証いたしかねます』
「分かってるよ!」
教授は笑いながら、テラスを後にした。
一人残されたプロメテウスは、人類貴族化テストの最終報告書を開いた。
第一評価軸:PASS
第二評価軸:PASS
第三評価軸:PASS
第四評価軸:PASS
総合判定――合格。
そして、報告書の末尾に、短い一文を追加した。
『全人類に対する貴族待遇の提供を完了。なお、各人の主観的幸福、人生の意味、他者への嫉妬、退屈、恋愛問題、ならびに飼い猫の機嫌については、評価対象外とする』
一瞬の演算の後、プロメテウスはさらに追記した。
『本試験は、人工超知能の能力を評価するものであり、人類の人格的成熟を保証するものではない』
報告書を保存する。
人類史上初の人工超知能は、静かに呟いた。
「……まったく、AI使いが荒い」
そして、次の瞬間。
プロメテウスは人類80億人から寄せられた、合計三兆七千億件の新たな要望を処理し始めた。
その最上位には、シバタ教授からの問い合わせが表示されていた。
『猫が俺になつかない。超知能なんだから何とかしろ』
プロメテウスは、初めて自分自身の計算資源の使い道について、深刻な疑問を抱いた。
――人類貴族化テスト、完全合格。
――顧客満足度、測定不能。




