第9話「人間の歯って、白いのね」
「……何をしている」
その低い声で、広場の空気がぴたりと止まった。
人垣の奥に立つ長身の影。銀色の髪。厚手の衣。他のエルフとは、まとう空気が明らかに違った。
「セグレイス様……」
リシェルが、半歩前に出て声をかけた。説明しようと口を開きかけた、その時だった。
「ウン、やっぱりスッキリするの!」
歯磨きを終えたミオルが、小枝を握ったまま笑顔で飛び出した。周りの大人たちに、無邪気に顔を向けて言う。
「歯がつるつる! 口の中が軽いよ! ねえねえ、みんなもやってみて!」
空気が、一気に変わった。
張り詰めていた緊張が、ミオルの声でいつの間にかほどけていく。誰かが小さく息を吐き、別の誰かが苦笑いを浮かべた。セグレイスの影は、それ以上こちらへは近づかなかった。木立の際まで下がり、そこに立ったまま、じっとこちらを見ていた。俺には、誰も気づいていないように見えた。
しばらく、誰も口を開かなかった。誰かが小さく咳払いをする。隣同士で、目配せが交わされる。詰めていた息を、みんなが少しずつ吐き出しているように、俺には聞こえた。広場の空気が、元の温度に戻るまで、数秒かかった。
ミオルが作った騒動は、思ったより長く尾を引いていた。
セグレイスが下がった後も、広場に残っていたエルフたちが、俺の周りに集まってくる。距離は相変わらず近い。でも、さっきまでの緊張とは違う。視線の先にあるのは、俺の顔ではなく、口元だった。
「本当に白い……」
誰かが小さく呟く。
「人間の歯って、こんな色なの?」
「私たちは、もっと……黄色っぽい、よね」
年配の女性が、自分の前歯を指で触りながら言う。隣の男性も、思わず口を開けて、自分の歯を確認していた。
「明のお兄ちゃんの歯、キラキラしてる!」
ミオルが得意げに胸を張る。小枝をまだ握ったままだ。
「これで磨いたら、つるつるになるの! すごいんだから!」
「本当に?」
若いエルフの一人が、半信半疑で聞いてくる。俺は、どう答えていいか分からなくて、とりあえず頷いた。
「……毎日やると、少しずつきれいになるよ」
「毎日?」
「うん」
「朝と夜?」
「……うん」
驚きの声が上がる。まるで、信じられない習慣を聞かされたみたいな顔をしていた。
その中に、リシェルもいた。少し後ろに立って、俺とミオルを見ている。何かを言いかけては、また黙る。視線が合うたびに、俺は心臓が小さく跳ねた。
「で、その……朝の小枝、ってやつは、誰でも作れるのか?」
今度は、中年くらいの男性が聞いてきた。興味深そうな目だった。
「枝さえあれば。柔らかいものを選んで、先をほぐすだけです」
「ほう……」
誰かが、自分の前歯を舌でなぞった。別の誰かが、隣の人の口元を覗き込んでいる
距離の近さが、ここでは観察の近さに変わっていた。
「私も、昔はもっと白かった気がするんだけどな」
「歳のせいよ。長いこと使ってれば、色も変わるわ」
「でも、明くんは白い。人間って、みんなああなの?」
「痛くはないのか? 力を入れすぎたら、歯茎が傷つきそうだが」
年配の男性が、心配そうに聞いてきた。
「優しくやれば、大丈夫です。強くこすりすぎると、逆に良くないので」
「ふむ……」
「これ、私たちがやっても、意味あるのかしら。人とは違って虫歯にはならないのに」
別の女性が、首を傾げながら言う。俺は、少し迷ってから答えた。
「虫歯とは、別の話です。……その、口の中が、きれいになるのと、汚れたままなのとでは、違うから」
質問が飛ぶ。俺は、答えながら、少しずつ後退していた。匂いが、また濃くなってきている。誰か一人が話すたびに、発酵した果実のような匂いが、風に乗って届く。それが幾つも重なって、じわじわと濃度を増していく。息を止めたいのを堪えながら、俺は質問に答え続けた。みんな口を開けて話すから、余計に近い。
それでも、さっきの冷たい視線に比べれば、ずっと楽だった。興味の視線は、敵意の視線よりずっと耐えられる。
「……すごいな、人間は」
ふと、誰かが言った。
「歯を大事にするんだな」
その言葉に、俺は少しだけ胸が熱くなった。大事にしている、というより、当たり前にやっているだけだ。でも、この森ではそれが特別らしい。
年配のエルフの一人が、ゆっくりと口を開いた。白髪混じりの長い髪。穏やかな目。
「私も、試してみようか……」
言いかけた、その時だった。
「……我らの口を穢す気か」
鋭い声が、広場を割った。
再び空気が、凍りついた。




