第10話 「森の誇り」
「……我らの口を穢す気か」
声は、背中の方から聞こえた。
振り向く。人垣が割れた。そこに立っていたのは、さっき木立の際まで下がったはずの影だった。銀色の髪を後ろで結んでいる。厚手の衣。他のエルフの薄い布とは違い、風を通さないような、重い布だ。
さっきまで俺の周りに集まっていたエルフたちが、一斉に一歩下がった。さっき「本当に白い」と言っていた年配の女性も、自分の前歯を触っていた男性も、視線を落とす。距離が空く。広場の空気が、急に薄くなるのが分かった。
広場が、また静かになった。さっきの静けさとは違う。重い。
「セグレイス様」
リシェルの声が、少し後ろから聞こえた。か細い。
「明は……その、口の中を綺麗にしようと……」
「綺麗に?」
セグレイスさんの声は、大きくないのに、よく通った。
「枝で口を擦ることが、綺麗だと?」
視線が、俺の手元に落ちた。握っているのは、柔らかい枝をほぐしただけのものだ。
「その枝は何だ」
「えっと……朝の、小枝です。歯を、磨くための」
「誰の許しを得て、森の枝をそのようにした」
詰まった。誰の許しも、得ていない。落ちていたのを拾ったんじゃない。昨日、目をつけていた低木から、勝手に切ってきたものだ。パーカーの内側に隠してる月と花の枝とは違う。こっちは、生きていた枝を、俺が切ったものだ。
喉の奥が、冷たくなった。手のひらに汗がにじむ。握っている小枝の切り口が、まだ青いのが見えた。
「世界樹の恵みは、森を守るためにある。我らが口にするもの、身にまとうものは、全て森の許しを得たものだ。お前は、森に断りもなく、枝を切り、口に入れたのか」
セグレイスさんは、一歩近づいてきた。
近づいてきた途端、匂いが濃くなった。発酵した果実のような、あの匂いだ。他のエルフよりも、ずっと強い。口を固く閉じているのに、息が漏れるたびに、むっとした熱が届く。唇の端に、力が入っているのが見えた。俺は、息を止めたいのを堪えた。毎日、他人の歯磨きをしてきた時の、あの堪える感じに似ていた。
「森を守ることこそ、我らの誇りだ」
広場に響いた。
「口は、祈りを捧げる場所だ。森の外の理屈で穢せば、歌は届かなくなる。誇りを、外のもので穢すな」
その言葉に、頭に血が上った。穢す、という言葉に。
「穢してなんか……いない。ただ、気持ち悪いだけだ。汚れたままだと、歌う時も、話す時も、ずっと気になる。だから、磨く。白くなるのは、結果だ」
言いながら、自分の口元に手を当てた。ざらざらした砂と布で磨いていた時のことを思い出した。舌が、つるつるする感覚だけを。
セグレイスさんの眉が、わずかに動いた。
「結果?」
「うん。綺麗だと、楽になる」
周りを見渡した。誰も口を開かない。見えない壁ができていた。リシェルも、何か言いたそうに口を開きかけて、また閉じたのが見えた。
セグレイスさんは、ずっと俺を見ていた。その目には、怒りというより、もっと重い、信念のようなものがあった。
「その枝も」
一拍、置いた。
「外の理屈も」
もう一拍。
「二度と持ち込むな」
低い声だった。
そう言って、背を向けた。厚手の衣が風で揺れた。人垣が、自然に道を開ける。足音はしなかった。木立の向こうに姿が消えるまで、誰も動かなかった。風の音だけが聞こえた。
残されたのは、俺と、握りしめた朝の小枝だけだった。切り口が、まだ青かった。鼻の奥に、あの強い匂いが、まだ残っていた。




