第11話 「歌が楽になる」
翌朝。広場の隅に、何人かのエルフが集まっていた。昨日までなら、俺がそこにいるだけで視線が集まった。今日は違う。視線が集まっているのは、俺の手だった。
「それが、朝の小枝?」
「はい」
俺は頷いて、小枝を差し出した。渡すかどうか、一瞬迷った。昨日、セグレイスさんに「二度と持ち込むな」と言われたばかりだ。ここで大人しく引っ込めるのが賢いのかもしれない。それでも、俺は手を止めなかった。
「本当に、これで歯を磨くのね」
「そうです」
年配の女性が受け取ると、輪の端にいた若い男が小さく声を上げた。
「おい、大丈夫かよ。セグレイス様に見つかったら……」
「見つかったら、その時だ」
俺は、思っていたより強い声が出た。自分でも少し驚いた。
「使うかどうかは、皆さんが決めることだと思うので」
女性は、しばらく小枝を見つめてから、口元へ持っていった。俺は横で、彼女の手の動きを見ながら、角度を軽く直した。
「もう少し、歯茎の方から。……そう、そこです」
「……こう?」
しゃり、と小さな音がした。女性は何度か動かしたあと、口を閉じて、舌で歯の表面を確かめる。
「……変な感じ」
「最初はそんなものです」
「でも」
もう一度、舌を動かす。
「……なんだか、つるつるする」
その言葉に、周囲から小さなどよめきが起きた。躊躇っていた若い男も、いつの間にか身を乗り出している。
「貸して」
「順番よ」
「私もやってみたい」
昨日までなら、誰もそんなことを言わなかった。俺は、枝の選び方とほぐし方だけを教えた。太すぎず、古すぎず、しなやかなもの。皮を剥ぐと、中から白い繊維が出てくる。力を入れすぎれば折れ、弱すぎれば広がらない。石で叩く加減。見よう見まねで、めいめいが川原に落ちている枝に手を伸ばし始める。しゃり、しゃり、と繊維をほぐす音が、あちこちで重なった。自分の分を、自分で作る。誰の枝も、少しずつ形が違った。
一段落したところで、俺は思いついたことを口にした。
「皆さん、傷とか虫刺されの時に使う薬草って、ありますか」
「あるわよ。葉を潰して塗るの」
「それ、歯磨きにも使えないですかね」
「薬草を、歯に?」
女性が眉を上げる。
「葉を潰して塗るのとは、勝手が違うでしょう」
「ですよね。粉にして、少し水を混ぜたら、どうかなと」
「粉……」
女性は少し考えてから、隣にいた別の女性と顔を見合わせた。
「それなら、乾燥させた葉を石で叩けば、粉にはなるけど」
「口に入れて平気な薬草、いくつかありますよね」
「あるにはあるわ。でも、どれが向いてるかは、実際にやってみないと分からないわね」
「ただし」
女性は、少し声を強めた。
「使う草は、こっちで選ばせてもらうよ。あんたの世界のやり方じゃなくて、こっちのやり方でね」
「……はい」
俺は、素直に頷いた。女性は、少し得意そうに笑った。俺は、この森のことを何も知らない。知っているのは「歯を磨く」というやり方だけで、何を材料にするかは、結局この人たちに聞くしかない。それが、少し悔しくて、少し安心もした。
「明のお兄ちゃん!」
ミオルが走ってきた。口を大きく開ける。
「ミオ、今日も磨いたよ!」
「うん。偉いな」
「それでね! 歌、歌ってみたの!」
ミオルはその場で、小さく歌い始めた。森の言葉なのだろう。意味は分からない。けれど、昨日まで聞いた歌とは少し違う。声が軽い。音がまっすぐ伸びている。
そして。
——ミオルの周りを、小さな光がふわりと飛んだ。
数日前、薬草畑でリシェルが精霊術を使った時にも、似たような光を見た。でも、何かが違う気がした。色なのか、動きなのか、それとも単に俺の気のせいなのか、うまく言葉にできない。
「……精霊?」
俺が呟くと、ミオルが嬉しそうに笑った。
「昨日より近いの!」
「近い、って」
「いつもは、もっと遠くにいるんだよ。今日は、すぐそこ」
俺は光を見つめた。朝の小枝で歯を磨いたからなのか。それとも、別の理由があるのか。まだ分からない。
「ミオ、もう一回歌ってみて」
「うん!」
今度は少し長い歌だった。光が、また一つ、葉の陰から姿を現す。今度は二つ同時に、ゆっくりと円を描くように舞った。
その時。
「……あら」
後ろから声がした。振り向くと、さっき歯を磨いていた年配の女性が、自分の喉に手を当てていた。
「どうしました?」
「いや……」
女性は不思議そうな顔をした。
「さっきから、声が出しやすい気がするの」
「声が?」
「ええ」
もう一度、喉に触れる。
「歌う時、ここが……いつもより楽」
俺は、彼女の喉から、ミオルの周りを飛ぶ光へ視線を移した。
どちらも、昨日まではなかった。
それだけだった。
俺は、まだ名前のない何かの輪郭を、初めて指でなぞった気がした。




