第12話「精霊が、近づいてくる」
翌朝も、広場の隅には人が集まっていた。昨日より、少し人数が増えている。年配の女性が中心になって、朝の小枝の持ち方を教えていた。俺は少し離れた場所から、その様子を眺めている。
「そこは、もう少し力を抜いて」
「こう?」
「そうそう。強くこすると、歯茎を傷めますよ」
いつの間にか、俺が教えていたことを、別の人が教えている。少しだけ、不思議な気分だった。
「明」
声がして、振り返る。リシェルだった。距離は、いつもの近さ。銀色の髪が朝の光を受けて、柔らかく揺れている。
「……どうした?」
「昨日の、ミオルの話。聞いた」
「精霊が近くに来た、ってやつ?」
「うん」
リシェルは、自分の掌を見つめた。指先が、ほんの少し震えている。
「私も、試したい」
短い言葉だった。迷いのない声だった。
「……無理にやらなくてもいい」
「無理じゃない」
リシェルは、はっきりと言った。
「あの日、制御できなかった。光が、私の言うことを聞かなかった。あれが、また起きるのが怖くて……ずっと、迷ってた」
あの日の光景が、脳裏をよぎった。暴れる緑の光。膝をつくリシェル。掠れた、「ごめん、ね」。あのときの無力感が、胸の奥にまだ残っている。
「もし、ミオルの言ってることが本当なら……」
リシェルは自分の手を握った。
「少しでも、楽になるかもしれない。私も、光をちゃんと扱いたい」
俺は、パーカーの中に手を入れた。指先が、二本の小枝に触れる。今朝、広場で教えるために削った、なんの変哲もない一本。それから、パーカーの内ポケットの奥に入れてある一本。月と花を彫った、渡すつもりでずっと持ち歩いている方だ。
指が、一瞬迷った。でも、今じゃない。そう思った。理由はうまく言えない。今渡したら、何かが違う意味になってしまう気がした。
俺は、なんの変哲もない方を取り出した。
「……これでいいのか?」
「うん」
リシェルは両手で受け取った。一瞬、指先で小枝の表面をなぞるように触れる。それから、視線をちらりと広場の方——さっきまで大人たちが手にしていた小枝の方へ向けた。
「……ん?」
「どうした?」
「ううん。……同じ、なんだなって」
リシェルは小さく首を振って、笑った。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
俺たちは川へ向かった。
川辺で、リシェルはしゃがみ込んだ。小枝を歯に当てる。最初はぎこちなかった。力が入りすぎて、すぐに手を止める。
「もう少し優しく」
「こう?」
「そう。力を抜いて、小刻みに」
しゃり、しゃり、と小さな音が続く。リシェルは真剣だった。何度か口をすすぎ、また磨く。やがて小枝を置き、舌で歯の表面を確かめた。
「……変な感じ」
「最初はみんなそう言う」
「でも……」
リシェルは頬に手を当てた。
「軽い。口の中が、昨日までと違う」
「……そう?」
「うん。何かが落ちたみたい」
俺は何も言えなかった。嬉しかった。それと同時に、少し怖かった。自分が渡した小枝一本で、彼女の何かが変わってしまったような気がしたからだ。
リシェルは立ち上がった。そして、両手を前に差し出す。あの日、薬草畑でやったのと同じ姿勢だった。目を閉じる。ゆっくり息を吐く。しばらく、何も起こらなかった。俺も黙って見ていた。
やがて——淡い緑の光が、彼女の掌に生まれた。
「……!」
あの日とは、違う。輪郭がはっきりしている。色も濁っていない。何より、光が暴れていなかった。小さく揺れながら、彼女の掌の上に留まっている。まるで、そこが自分の居場所だと知っているみたいに。
リシェルの肩から、少しずつ力が抜けていく。
「……楽」
「術が?」
「うん。あの日みたいに、すぐ重くならない」
光が、ふわりと揺れる。
「私のところに、いてくれる」
「……精霊が?」
「たぶん」
リシェルは、少し困ったように笑った。
「まだ、分からないけど」
その言葉に、俺は少し安心した。俺だって、分からない。歯を磨いたから精霊が近づいたのか。歌いやすくなったからなのか。それとも、たまたまなのか。昨日のミオル。今日のリシェル。二人とも、歯を磨いた後に変化があった。でも、それだけで原因だと決めつけるには、まだ材料が足りない。
リシェルは光を消した。そして、手の中の小枝を見つめる。指先で、ほぐれた繊維をそっと撫でた。
「明」
「ん?」
彼女は小枝を胸の前で握ったまま、俺を見る。
「これ、もらってもいいの?」
「もちろん」
「じゃあ、大事にする」
それだけだった。リシェルは、小枝を胸の前でもう一度握り直すと、川面に映る自分の顔を覗き込んだ。俺は、その仕草から目を離せなかった。
朝の光が、川面で揺れている。その向こう。木々の間を、小さな緑色の光が一つだけ、ふわりと横切った。俺は思わず目で追った。リシェルも気づいたらしい。二人とも、何も言わなかった。ただ、その光が消えていくまで、並んで眺めていた。
ポケットの中には、まだ、渡していない一本がある。その事実だけが、妙に重かった。




