第13話「言えない理由」
広場から戻る道の途中、リシェルは何度も手の中の小枝を見ていた。月と花が彫られたものではない。今朝、俺が渡したのは、ただの小枝だ。広場で他のエルフたちが使っていたものと、何も変わらない。それでも、リシェルは大事そうに握っていた。
「……明」
「ん?」
隣を歩いていたリシェルが、足を止めた。俺も立ち止まる。
「さっきのことなんだけど」
「うん」
「一つ、聞いてもいい?」
リシェルは、小枝を見つめたまま言った。
「どうして私には、これをくれなかったの?」
胸の奥が、どくん、と鳴った。やっぱり、その話になるのか。
「……どうしてって」
「一昨日、ミオルが使って、昨日から、広場のみんなが使っていたでしょう?」
「そうだな」
「だから、私も欲しかった」
責めるような声ではなかった。ただ、不思議そうだった。
「でも、明は……最初から持っていたんでしょう? 今朝、二本持っていたよね」
見られていた。俺は、胸に手をやった。そこには、まだ一本残っている。月と花を彫った小枝。ずっと渡すつもりで持ち歩いていたものだ。
「……気づいてたのか」
「うん」
リシェルは少し笑った。
「明、隠すのがあまり上手じゃないから」
柔らかい笑い声だった。だからこそ、余計に苦しかった。
渡せなかった理由なら、いくらでも考えられる。一昨日、セグレイスさんに止められたばかりだったから。今はまだ、みんなが使い始めたばかりだから。精霊との関係も、何も分かっていないから。どれも嘘ではない。でも、本当でもなかった。
「……別に、意味はないよ」
「意味がないなら、どうしてくれなかったの?」
「それは……」
言葉が止まった。リシェルがこちらを見る。銀色の瞳が、まっすぐ俺を見ていた。逃げるように視線を逸らす。川面が見えた。朝の光を受けて、きらきらと揺れている。その向こうを、さっきの小さな緑色の光が飛んでいた。
精霊。昨日までなら、俺には見えなかったもの。それが今は、リシェルのそばにも来ている。俺が小枝を渡したからなのか。それとも、別の理由なのか。まだ分からない。だからこそ、渡したことを喜んでいいのかさえ、分からなかった。
「……怖かったんだ」
気づいたら、そんな言葉が出ていた。
「怖い?」
「うん」
リシェルが首を傾げる。
「何が?」
俺は答えられなかった。怖かったのは、精霊じゃない。小枝でもない。リシェルが変わってしまうことだった。昨日まで、俺の隣で笑っていた彼女。俺のくだらない話にも笑ってくれる彼女に、俺の世界のものを押しつけて、それで何かが変わってしまったら——そう考えると、手渡すことができなかった。
だけど、それだけじゃない。好きだからこそ、特別なものとして渡したかった。広場で誰にでも渡しているものじゃなく、俺が彼女のために作ったものとして。でも、そんなことを言えるはずがなかった。
「……明?」
「ごめん」
それしか言えなかった。
「何が?」
「……分からない」
リシェルはしばらく黙っていた。やがて、小枝を胸の前で握り直す。
「じゃあ」
「ん?」
「これは、どうしてくれたの?」
今度は答えなければならない。でも、やっぱり言葉が出てこない。
「……使ってほしかったから」
「私に?」
「うん」
「どうして?」
俺は唇を開いた。けれど、声にならない。好きだから。その一言を言えば、それで済む。たったそれだけなのに、言えなかった。言ってしまえば、今までの関係が変わってしまう。リシェルが俺を見る目も。俺がリシェルを見る目も。全部。
胸の辺りを押さえる指先が、月と花を彫った一本の存在を感じていた。今なら、渡せる。目の前で、聞かれている。渡せない理由になっていたはずのものが、今はもう、渡さない言い訳にしかなっていない。分かっているのに、指が動かなかった。
「……明?」
気づくと、リシェルが一歩近づいていた。俺は動けなかった。朝の風が吹く。銀色の髪が揺れ、その向こうから、あの匂いがわずかに届いた。まだ、消えていない。それでも——昨日より、ほんの少しだけ違う気がした。
「明」
リシェルが、もう一歩近づく。俺の返事を待つように。何かを確かめるように。
「……どうして?」
俺は、答えられなかった。




