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エルフの森の歯磨き事情  作者: 藤紫


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第14話「顔を、背けた」

 リシェルは、もう一歩、近づいていた。


 息が、届く。


 森の匂いが、濃く、まっすぐ顔に流れ込んでくる。発酵した果実。湿った古木。熟れすぎた樹液。昨日より、ほんの少し軽くなった気がしていたのに——今は、違う。距離が近すぎる。答えを待たれている緊張が、匂いを何倍にも濃くしている。鼻の奥が、じわりと熱を帯びる。肺まで、その濃さが染み込んでくるのが分かった。


「……どうして?」


 静かな声だった。

 責めてはいない。ただ、知りたがっている。優しくて、真剣で、逃げ道を塞ぐような声だった。この声に、嘘で返すのは無理だ。本当のことも、言えない。


 俺は、何も言えなかった。

 喉の奥が、熱い。言葉を出そうとすると、息を吸わなければならない。吸えば、匂いが入ってくる。止めれば、苦しい。どちらを選んでも、詰む。頭の中で、言葉を探しても、見つからない。


 リシェルの顔が、近い。

 銀の髪が、肩から滑り落ちて、視界の端を遮る。新緑の瞳が、まっすぐ俺を見ている。悪意のない、真剣な目。だからこそ、耐えられない。この目に、本当のことを言ったら、どうなるのか。傷つけてしまうのか。嫌われるのか。それとも、ただ困った顔をされるだけなのか。分からない。分からないまま、体が固まっていく。指先が冷たい。肩に、余計な力が入っている。


「明」


 名前を呼ばれた。さっきより、少しだけ、低い声だった。


「ねえ、明。私、何か、した?」


 違う。そうじゃない。君は何もしていない。悪いのは、全部、俺だ。


「何か、気に障った?」


 気に障った、わけじゃない。分かっている。分かっているのに、その先の言葉が、出てこない。


「それとも——」


 リシェルは、少しだけ間を置いた。


「私のこと、嫌いになった?」


 違う。


 そう叫びたかった。叫べば、楽になる。でも、叫べば、次に何を言う? 頭の中に浮かんだ言葉は、どれも今の俺には重すぎた。言えば、全部が壊れる。言わなければ、このまま壊れていく。どちらを選んでも、詰んでいる。

 その時だった。


 ——匂いが、跳ねた。


 リシェルが、息を吐いた。心のどこかで、俺の答えを待って、小さく息を吐いた。その一瞬で、同じ匂いが、今度はもっと近くから、いっぺんに押し寄せてきた。逃げ場を塞ぐみたいに、鼻の奥を突き抜ける。


  体が、先に動いた。

 半歩、後ろへ下がる。いや、もっとだったかもしれない。気づいた時には、リシェルの顔が、視界の端に追いやられていた。

 顔を、背ける。首が、勝手に動く。自分の意思じゃなかった。まるで、体の芯から、拒絶の反応が湧き出してくるみたいだった。


「……っ」


 喉の奥で、空気が逆流する音がした。

 むせた。匂いで。いや、違う。匂いじゃない。この距離で、この目で、この問いで——逃げ場がなくなったから、喉が、勝手に悲鳴を上げた。

 情けない音だった。小さくて、みっともなくて、全部を台無しにするには十分すぎる音だった。


 沈黙が落ちる。

 風の音だけが、耳に残った。葉擦れが、やけに大きく聞こえる。自分の呼吸音が、恥ずかしいほどはっきりしている。吸うたびに、まだ匂いの残滓が鼻を刺す。完全には消えていない。


 後ろで、衣擦れの音がした。

 足音が、一つ、後ろへ下がる。そして、少し間を置いて、もう一つ。遠ざかる。ゆっくりと。でも、確かに。


 彼女は、何も言わなかった。振り返って、俺の顔を見ることもなく。ただ、静かに、離れていった。


 その背中を、俺は見なかった。見られなかった。見たら、たぶん、追いかけてしまうから。

 振り返れない。

 振り返ったら、彼女の顔が見える。傷ついた顔か、不思議がっている顔か、それとも——嫌われた顔か。どれも、見たくなかった。見たら、何かを言わなければならなくなる。説明しなければならない。でも、説明できる言葉が、どこにもない。


 言えたら、楽になるものが、いくつもある気がした。でも、どれも、言葉にした瞬間に、何かが壊れる気がした。

 ポケットの中で、月と花を彫った小枝が、まだそこにあるのが分かった。渡したかったのに。渡せなかった。今も、渡せない。あの小枝が、今は責めるように胸に当たっている気がした。


 喉の奥が、まだ熱い。さっきの音が、耳の奥で繰り返されている。耐えきれず、鳴ってしまった、あの音が。

 あの音が、全部を壊した。

 壊れたのは、たぶん、この関係だ。俺とリシェルの、たった数日間の、それでも俺にとっては、全部だった関係。


 振り返れないまま、俺は目を閉じた。まぶたの裏に、リシェルの真剣な目だけが、残っていた。


 ——もう、戻れない。

 

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