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エルフの森の歯磨き事情  作者: 藤紫


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第15話「嫌われてるのかな」

 翌朝、リシェルは、いなかった。


 寝床は、きちんと整えられていた。毛皮が、丁寧に畳まれている。いつもなら、彼女の方が早く起きて、朝ごはんの支度をしているのに。今日は、火も入っていなかった。鍋も、棚の上に戻されている。水差しも、空のまま。


「……リシェル?」


 呼んでみた。返事はない。


 家の外に出る。広場の方から、祈りの歌が聞こえる。薬草畑の方から、水を運ぶ音。いつもと同じ朝だ。


 ただ、一つだけ、違う。


 銀色の髪が、どこにも、ない。


 広場に行ってみた。朝の小枝を手にしたエルフたちが、いつものように集まっている。年配の女性が、俺に気づいて、手を振った。


「明くん、おはよう。……リシェルは?」


 その一言で、全部、分かった。


「……探してきます」


 女性は、何も聞かなかった。ただ、少しだけ、心配そうな顔をして、頷いた。


 森の方へ、歩き出した。


 森は、いつもと同じだった。木漏れ日。鳥の声。風の音。なのに、今日は、どこか冷たい。


 途中、何度か、銀色の髪を見つけた気がした。でも、どれも、木漏れ日が作った錯覚だった。リシェルは、どこにもいなかった。いや、正確には――いるのかもしれない。でも、俺の前には、姿を現さない。


 薬草畑のそばを通った。誰もいなかった。いつもなら、誰かが水をやっているはずなのに。川のそばを通った。水面が、朝の光を反射している。


 ここで、リシェルに、歯の磨き方を教えた。彼女は、真剣に、何度も口をすすいで、それから、小さく笑った。


 ――その笑顔を、俺は、もう、見られないのかもしれない。


 足が、止まりかけた。でも、歩き出した。探さなければ、ならない。


 嫌われてるのかな。


 歩きながら、その言葉が、頭の中で勝手に鳴った。認めたくなかった。でも、一度浮かんでしまうと、消えてくれなかった。


 森の奥へ、奥へと歩いた。


 途中で、足音が聞こえた。誰かが、こちらに近づいてくる。俺は、足を止めた。


 銀色の髪。長い耳。緑の衣。


 リシェルだった。


 彼女は、俺に気づくと、足を止めた。距離は、五歩分くらい。いつもの「近さ」ではなかった。彼女は、俺を見ていた。でも、その目は、昨日までの目ではなかった。何かを、こらえているような。何かを、諦めているような。


「……リシェル」


 俺が呼ぶと、彼女は、少しだけ、目を伏せた。


「明」


 声は、静かだった。


「昨日は、ごめん」

「……え?」

「変なこと、聞いちゃって」


 リシェルは、笑った。声は、いつもと同じ高さだった。なのに、少しも、耳に馴染まなかった。まるで、誰か別の人が、彼女の声を借りて喋っているみたいだった。


「気にしないで。私、変だったよね。急に、あんなこと聞いて」

「……そんなこと、ない」

「ううん。私が、変だった」


 リシェルは、俺の言葉を、静かに遮った。そして、少しだけ、視線を上げた。その目は、まっすぐ俺を見ていた。でも、その奥に、何か、冷たいものがあった。


「明は、何も悪くないよ」

「……リシェル」

「私が、勝手に、期待してただけ」


 期待。


 その言葉が、胸に刺さった。彼女は、何を、期待していたんだろう。小枝を、もらえることを? それとも、俺の答えを? それとも、もっと、別の何かを?


「だから、もう、気にしないで」


 リシェルは、そう言って、背を向けた。


「……リシェル!」


 俺は、呼び止めようとした。でも、足が、動かなかった。彼女は、歩き出した。銀色の髪が、木漏れ日の下で、揺れている。その背中は、昨日までより、ずっと、遠く見えた。


「リシェル!」


 もう一度、呼んだ。声は、届いたはずだ。でも、彼女は、振り返らなかった。歩く速度を、少しだけ、上げただけだった。


 俺は、その場に、立ち尽くしていた。


 足が、動かない。声も、出ない。ただ、リシェルの背中が、木々の間に消えていくのを、見ていることしか、できなかった。


 彼女は、去った。俺の前から。俺が、何も言えなかったから。それだけだ。それだけのことが、こんなに、重い。


 服の内側に、月と花を彫った小枝が、まだ、そこにあった。


 渡せなかった。


 その事実だけが、今は、やけに、重かった。

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