第16話「独りの夜」
ごめんなさい。アップし損ねてました。
その夜、リシェルは帰ってこなかった。
寝床は空いたままだった。毛皮は昨日のまま畳まれている。俺は自分の寝床に腰を下ろした。隣が冷たい。
ポケットの中から月と花を彫った小枝を取り出した。手のひらに載せると軽い。でも、この軽さが今は重い。月と花の模様が指の腹に引っかかる。渡すはずだった。渡せなかった。それだけのことが、まだここにある。
昼になっても、リシェルは戻らなかった。
ミオルが家の前まで来た。
「明のお兄ちゃん。リシェルお姉ちゃん、まだいないの?」
「……うん」
「ミオ、探してこようか!」
「……大丈夫。俺が探すから」
「……うん。でも、ミオ、いつでも手伝うからね!」
ミオルは少しだけ心配そうな顔をして、帰っていった。その背中が、少しだけリシェルに似ていた。似ている、と思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
俺は家の外に出た。集落はいつも通りだった。広場ではエルフたちが朝の小枝を使って歯を磨いている。年配の女性が俺に気づいて、手を振った。でも、その手を振り返す気にはなれなかった。
「明くん、リシェル、見つかった?」
「……いいえ」
「そう」
女性はそれ以上何も聞かなかった。ただ少しだけ心配そうな顔をして、また自分の作業に戻った。
昨日と同じ場所を、また歩く気にはなれなかった。俺は集落の反対側、まだ足を運んだことのない方角へ歩いた。見覚えのない小道。名前も知らない木。こんな場所まで彼女に案内してもらう前に、こんな形で一人で歩くことになるとは思わなかった。当てもなく歩き回るうちに、日が傾いていた。
夕方になっても、リシェルは戻らなかった。
俺は家に戻った。リシェルの家はまだ静かだった。誰もいない。火も入っていない。水差しも空のまま。俺は自分で火を起こした。慣れない手つきで何度も火を消した。プラモデルなら一晩で組み上げるのに、焚き火ひとつ組めない。頭の奥で、あの事務的な声が『——チート能力は、ありません』と言った気がした。うるさい。ようやく火がついた時には、外はもう暗くなり始めていた。
一人で夕食を食べた。木の実の粥。焼いた魚。薬草の茶。普通に美味しい。美味しいんだけど、隣にリシェルがいない。それだけで、こんなに味気ないなんて思わなかった。
食べ終えて器を棚に戻した。リシェルの器は、まだそこにあった。木の実をくり抜いた、小さな器。彼女が毎日使っていたもの。彼女は今、どこで何を食べているんだろう。そう思うと、また胸の奥が痛んだ。
夜。俺は眠れなかった。
リシェルは帰ってこなかった。どこにいるのか分からない。もしかしたら別の誰かの家に泊まっているのかもしれない。もしかしたら森の中で一人で夜を過ごしているのかもしれない。どちらにしても、俺にはどうすることもできない。
何か言えばよかった。何度もそう思った。でも、何を。好きだと。息が濃いと。どちらも言えなかった。言えば壊れる。言わなければ壊れる。同じだと思っていた。でも、違う。言えば、まだ何かが残ったかもしれない。言わなかったから、何も残らなかった。今なら、それが分かる。
情けない。でも、それが今の俺だ。ヒーローじゃない。チート能力もない。あるのは白い歯と古い記憶だけ。それで彼女を守れると思っていた。甘かった。いや、守るなんておこがましい。俺はただ、彼女の隣にいたかっただけだ。それすら、できなかった。
心の中で、リシェルの名前を呼んだ。返事はない。当たり前だ。彼女はもう、ここにはいない。
ふと、小枝を膝に置いて、ポケットに手を入れた。指先が硬いものに触れた。スマホだった。
取り出して電源ボタンを押すと、画面が一瞬だけ光った。電池の表示が、ほとんど空になっていた。
「……」
圏外の画面に、連絡できる相手はいない。もう一度、リシェルの名前を呼びたくなった。
何となく画面を見つめていた。やがて、画面が暗くなった。もう一度、電源ボタンを押してみるが、何も起こらなかった。
「……そうか」
俺は、その冷たい塊を握った。寝床も同じくらい冷たかった。
窓の外を見る。月明かりの下で、森が静かに眠っている。リシェルはどこにいるんだろう。何を考えているんだろう。
俺はスマホをポケットに戻した後、もう一度小枝を握りしめた。月と花の模様が指に食い込む。
——明日。明日、もう一度会いに行こう。
そう思った。思っただけで、足は動かなかった。
その時だった。
——世界樹の方角から鈍い音がした。
地の底から響いてくるような低い音。まるで何かが軋んでいるみたいな。俺は寝床から飛び起きた。窓の外を見る。月明かりの下で、森がざわめいていた。木々が一斉に揺れている。風もないのに。
何だ、今のは。
音は一度鳴ったきり止んだ。でも、その余韻が耳の奥に残っている。何か良くないことが起きている。そう思った。
俺は毛皮を握りしめた。手の中の小枝の感触が、まだそこにあった。




