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エルフの森の歯磨き事情  作者: 藤紫


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第17話「枯れる大枝」

 朝、目が覚めると森が静かだった。


 いつもなら夜明けとともに鳥が鳴き、葉が擦れ、遠くで精霊の気配が揺れる。それが今日はない。空気は冷たく、匂いも薄い。まるで森全体が息を止めているみたいだった。


 寝床から起き上がる。隣は、やはり空いていた。


 毛皮を畳もうとして、手が止まった。昨日のままの形。リシェルが丁寧に畳んだ、あの形。俺が触ったら崩れてしまいそうだった。結局、そのままにした。水差しを手に取る。空だ。台所の隅に、リシェルの器がまだ置いてある。手に取る。軽い。でも、この軽さが今日はやけに重い。棚に戻す。音を立てないように、ゆっくりと。


 外に出る。広場の方から声が聞こえる。いつもの祈りの歌じゃない。ざわめきだ。それも、ただの雑談じゃない。もっと硬い。急いで家を出た。


 広場には、もう大勢のエルフが集まっていた。みんな同じ方向を——森の中心を——見ている。その中に、ファルネさんの姿もあった。杖をつき、いつもよりずっと背を丸くして、世界樹の方角を見つめている。


「ファルネさん」


 声をかけると、老人はゆっくりと振り返った。その目は疲れていた。老いの疲れじゃない。もっと深いところの。


「明よ。……来たか」

「何が、あったんですか」


 ファルネさんはしばらく黙って、それから杖の先で世界樹の方角を指した。


「大枝が、一本、枯れた」

「……大枝?」

「世界樹の、一番太い枝の一つじゃ。朝、見回りに出た者が見つけた」

「枯れた、って……そんな、急に」

「急ではない。……そう、わしは思う」


 ファルネさんは目を細めた。


「あの枝は、ずっと前から、おかしかった。葉の色が、他の枝より薄かった。実の付きも悪かった。……ただ、誰も気にしなかった。エルフは虫歯にならぬから、歯の手入れをせぬように。森も、ずっと元気だと、そう思っておった」


 最後の一言は少し引っかかる言い方だった。まるで、自分に言い聞かせているみたいだ。


「ファルネさん」

「ん?」

「それ、歯と、関係あるんですか」


 ファルネさんは俺をじっと見た。その目に、何か確かめるような色があった。


「……まだ、分からん。古文書に、似たような記述があった気がする。じゃが、まだ確かめておらん。憶測で、ものを言うべきではない」


 ファルネさんは杖を握り直した。


「わしは、もう一度、古文書を読み直す。お前も、何か気づいたことがあれば、教えてくれ」

「……はい」


 その時だった。


 ——匂いが、変わった。


 広場の空気が急に薄くなった。あの森の匂いが、一瞬で遠のいた。代わりに、鼻の奥を刺す乾いた匂い。枯れた木。焦げた葉。何かが終わっていく時の匂い。


「——っ!」


 広場の端で、若いエルフが精霊術を試みていた。薬草の元気を戻そうとしているのだろう。掌を前に差し出し、目を閉じる。いつもの光景だ。でも、次の瞬間、その掌に生まれた光は明らかにおかしかった。


 輪郭がぼやけている。色が濁っている。泥水をすくったみたいに重く、淀んでいる。光は若いエルフの手のひらで、しばらくもがくように揺れていた。そして——


 ドン、と小さな音を立てて弾けた。


「——っ!」


 若いエルフが手を引く。指先が少し焦げていた。焦げた匂いが、また広がる。周りにいた者たちが一斉に距離を取る。誰かが悲鳴を上げた。別の誰かが、その肩を支える。


「大丈夫か!」

「……ああ。でも、今の、何だ」

「分からん。術は使えたはずなのに」

「光が、言うことを聞かなかった」


 その言葉に、俺は息を呑んだ。


 ——リシェルの時と、同じだ。


 あの日。薬草畑で、リシェルの光が暴れた。あの時も、彼女は「光が言うことを聞かない」と言った。あれは彼女一人の問題じゃなかった。森全体で、今、同じことが起きている。


 広場のあちこちで、精霊術が暴れ始めた。


 まず、音が変わった。葉擦れでも、鳥の声でもない。低い、唸るような音。空気が震えている。地の底から響いてくるみたいな。次に、光。あちこちで緑の光が弾ける。でも、色がおかしい。いつもの新緑じゃない。濁った、灰色がかった緑。泥水に墨を垂らしたみたいな色。


 ある者は薬草に水をやろうとして、光を弾けさせた。その光は葉に触れる前に、空中で破裂した。破片が飛び散る。一つが俺の頬をかすめた。熱い。焼けるような痛み。


 ある者は傷を癒そうとして、指先を焦がした。焦げた匂いが広がる。肉の焼ける匂いじゃない。木が炭になる時の匂い。乾いた、痛いような匂い。


 ある者は祈りを捧げようとして、声を失った。口を大きく開けているのに、声が出ない。喉が痙攣している。涙が溢れている。でも、音にならない。


 光が、術が、精霊が——みんな言うことを聞かない。


 悲鳴が上がる。でも、その悲鳴も途中で途切れる。声そのものが精霊に奪われているみたいに。怒号。泣き声。足音。誰かが誰かを押しのける。誰かが転ぶ。誰かが助けを求める。でも、その声もすぐに消える。


 焦げた匂いがどんどん濃くなる。枯れた木の匂い。乾いた土の匂い。森の匂いがどんどん変わっていく。発酵した果実の甘酸っぱさが薄れていく。あの、リシェルの口から漂っていた濃い匂い。嫌だと感じていた、あの匂い。それが消えていく。消えていくことが、こんなに怖いなんて。


 匂いだけじゃない。空気の質が変わっていく。湿り気が消えていく。乾いた粉っぽい空気が喉を刺す。呼吸が浅くなる。肺が痛い。まるで森そのものが乾いていくみたいに。


「静まれ!」


 低い声が響いた。


 セグレイスさんだった。厚手の衣をまとい、人々の前に立つ。その姿は、いつものように堂々としていた。


「慌てるな。精霊術の乱れは一時的なものだ。森が、少し疲れておるだけだ。そのうち戻る」


 その言葉に、ざわめきが少し収まる。でも、俺には分かった。セグレイスさんの言葉の間に、一瞬、沈黙があった。ほんの一拍。いつもの歯切れのいい話し方じゃない。そして、右手がほんの少し握られていた。拳を作るほどじゃない。でも、力が入っていた。


 ——彼も、分かっているのかもしれない。


 でも、その顔からは何も読み取れなかった。


 その時、人垣の隙間から銀色の髪が見えた。


 ——リシェル。


 彼女は広場の端に立っていた。でも、ただ立っているだけじゃない。掌を前に差し出している。何かの術を試みている。彼女の周りだけ光が暴れていない。でも、彼女自身は苦しそうだった。歯を食いしばっている。額に汗が浮かんでいる。光を押さえ込もうとしている。一人で。誰にも助けを求めずに。


 ——彼女も、戦っている。


 森の異変と。精霊の乱れと。そして多分、俺のこととも。


 彼女の目が俺を捉えた。一瞬だった。何かを言いかけるように、唇が動いた。でも、声にはならなかった。そして、すぐに視線を逸らした。背を向けた。銀色の髪が木々の間に消えていく。


「——明」


 名前を呼ばれて、振り返る。ファルネさんだった。その目は、さっきよりずっと真剣だった。


「わしは、古文書を読みに行く。お前は、どうする」


 俺は、もう一度リシェルが消えていった方を見た。もう、そこには誰もいない。でも、彼女が立っていた場所の空気が、まだわずかに震えている気がした。


「……俺も、行きます」


 ファルネさんは頷いた。


「では、来い。……時間がないかもしれん」


 歩き出しながら、俺はパーカーの中の小枝の感触を確かめた。月と花の模様。渡せなかった、一本。まだ、ここにある。


 でも、考えている場合じゃない。


 森が枯れようとしている。精霊が暴れている。そして、リシェルは一人で戦っている。


 だったら、俺がやることは一つだ。


 古文書を読む。森の異変の原因を探す。そして——


 今、自分にできることを、やる。


 足が少しだけ前に出た。ファルネさんの後を追いかけた。

 

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