第18話「古文書を開く」
ファルネさんの家は集落の外れにあった。
他のエルフの家よりも少しだけ大きい。でも目立たない。蔦に覆われて森に溶け込んでいる。
中に入って足が止まった。
壁がない。壁の代わりに棚がある。棚の代わりに古文書がある。木の板。獣の皮。編んだ繊維。天井までびっしりと。
森の匂いがしない。土の匂いも葉の匂いも、あの濃い発酵の匂いも。代わりに、乾いた紙と古い木と埃の匂いがする。この家だけ、森から切り離されているみたいだった。
「……すごい」
声が勝手に出た。ファルネさんは振り返らずに奥へ進んだ。その背中が、少しだけ、誇らしげに見えた。
「座れ」
勧められたのは窓際の椅子だった。
ファルネさんは棚の前に立つと、指で一枚一枚、板の縁をなぞりながら歩いた。木の板は、触れるとひんやりして、木目が指の腹に引っかかるものもあれば、長年触られ続けて表面が丸くすり減っているものもあった。獣の皮は、乾ききって、めくるたびにぱりぱりと小さく鳴った。
「……これじゃない」
ファルネさんが一枚を抜き出し、しばらく眺めてから、また棚に戻した。俺の位置からは見えなかったが、何か違うものが書いてあったらしい。別の一枚を手に取る。今度は少し長く眺めていた。
「……これも、違う。世界樹の根が、どこまで伸びておるかの記録じゃ。今、要るものではない」
そうやって、何枚も外れを引きながら、ファルネさんは奥へ奥へと進んでいった。
「ファルネさん、それ、どうやって並んでるんですか」
「並び? ……古い方から、奥へじゃ。じゃが」
板を一枚、傾けて光にかざしながら、ファルネさんは苦笑した。
「わし以外に読める者がおらんくなって長い。誰も並べ直さぬから、崩れておるのもある」
そう言いながらも、手は止まらなかった。木の板を数枚抜き出しては、文字を追い、また棚に戻す。獣の皮に描かれたものを広げては、首を振る。その途中、一枚の巻物を開いたところで、ファルネさんの手が一瞬止まった。
「……これは」
「何か、ありましたか」
「いや」
ファルネさんは、その巻物を軽く撫でてから、静かに棚へ戻した。
「世界樹が弱れば、わしらの命も、共に短くなる……そういう記述じゃ。今は、そこじゃない」
俺は、その一言に、体の奥が冷たくなるのを感じた。でも、ファルネさんはもう次の板に手を伸ばしていた。俺は何も言えず、椅子の上で拳を握った。
しばらく、その作業が続いた。
「ふむ……これじゃな」
ファルネさんが、ひときわ古そうな木の板を三枚、抱えて戻ってきた。表面が黒ずんでいる。端の方は、少し欠けていた。
「これはこの森の、一番古い記録じゃ。何代前の長老が書いたか、もう分からん。じゃが森の始まりのことが書いてある」
「森の始まり?」
「うむ。世界樹がどうやって生まれたか。精霊がどうやってこの森に根付いたか。エルフがどうやってここに住み始めたか」
ファルネさんは古文書を机の上に広げた。一枚目を、ゆっくりとなぞる。時々、口の中で何かを呟きながら。読めない文字にぶつかるたびに、眉間に皺が寄った。
「そして——口のことも書いてある」
「口?」
「うむ。……たしか、この辺りに」
ファルネさんは二枚目の板に手を移した。指で一行をなぞった。
その時だった。
ファルネさんの指が止まった。
ファルネさんが息を呑んだ。古い木の板の上で、節くれだった指が震えていた。
「……どうしたんですか」
ファルネさんは答えなかった。ただその一文を何度も何度も指でなぞっていた。
「……ファルネさん?」
「……あった」
声が震えていた。
「あった。ここにあった。歌ではない……息か? わしらは、読み違えておったのか」
ゆっくりとファルネさんは読み上げた。
俺には意味の分からない言葉だった。
それから、少し間を置いて――
「——清き息を持つ乙女、神酒に命を吹き込み、世界樹へ捧げよ」
「……清き息?」
俺が聞き返しても、ファルネさんはすぐには答えなかった。同じ一文を、何度も指でなぞっている。まるで、その意味を確かめることを、少しだけ恐れているみたいだった。
「……少し、時間がいる」
ようやく、そう言った。
「これが本当に、わしの思っている通りの意味なら……読み解かねばならん。急いては、間違える」
ファルネさんは古文書を閉じずに、そのままじっと見つめていた。




