第19話「清き息、という言葉」
しばらく、ファルネさんは何も言わなかった。俺も、口を挟めなかった。
やがて、ファルネさんは古文書に、もう一度目を落とした。
「今のエルフはこの言葉を『美しい声』と読む。『澄んだ歌声』と読む。……じゃが」
ファルネさんは顔を上げた。
「古代語では違う。『息』は『息』じゃ。口から出る、息そのものじゃ。……わしは今の今まで、間違って読んでおった」
その声は、悔しそうに聞こえた。
「さらに神事の前には、『口を清めよ』と書いてある。……じゃが、どう清めるのかは、どこにも書いておらん」
ファルネさんは、板の縁を指でなぞった。
「当たり前すぎて、誰も書き残さなんだのじゃろう。……そうして、わしらは、その習慣そのものを失っておった」
その言葉が胸にずんと落ちた。
ファルネさんは古文書を閉じた。
祖母のことを思い出した。
口を磨いてやると、いつもすっきりした顔をしていた。俺はずっと、ただ「気持ちいいから」だと思っていた。
……本当に、それだけだったのか。
その問いだけが、胸の底に残った。
「……口を清めよ、って」
声が震えた。
「それ、俺が毎朝やってることと、同じなんでしょうか」
ファルネさんは、じっと俺の顔を見ていた。
「……判らん」
ファルネさんは長い、長いため息をついた。
「じゃが、お前の話を聞いてから、気になって仕方がないのじゃ。確かめる価値はある」
ファルネさんは立ち上がった。
「わしはもう少し古文書を読み込む。お前は——」
「俺は」
俺は胸に手を当てた。
「リシェルに話します。……全部、話します」
ファルネさんは少し目を細めた。
「……大丈夫か」
「大丈夫じゃないです。でも話さないといけない。彼女が一人で戦っているから」
ファルネさんは、ただ小さく頷いた。
「……分かった。じゃが気をつけろ。セグレイスはまだ納得しておらん。お前のやっていることを快くは思っておらん」
「分かってます」
「それでも行くか」
「行きます」
ファルネさんは杖の先で、床を一度だけ軽く突いた。その目は、どこか温かかった。
「……明よ。お前は本当に、人間じゃな」
ファルネさんは小さく笑った。
「……俺はただ歯を磨いてただけです」
「それが、じゃ」
ファルネさんは頷きながら、俺を見た。
「エルフが何百年も忘れておったことを、人間の少年が毎日の習慣で思い出させたのかもしれん。これが、有り難くなくてどうする」
それから、ファルネさんはしばらく黙っていた。古文書を棚に戻す。その手が、少しだけ、震えていた。
「エルフは、長く生きる。長すぎるかもしれん」
それだけ言って、ファルネさんは杖を握り直し、その先で扉を指した。
「行け。リシェルはたぶん、薬草畑の奥。あの子は昔から悩んだ時はあそこに行く」
「……昔から、って、どのくらい前からですか」
「百五十年ほどじゃな」
昔の単位が違う。一瞬だけ、肩の力が抜けた。
「……ありがとうございます」
俺は頭を下げて家を出た。背後で、杖の音がした。ファルネさんが、戸口まで見送りに出てきていた。
外はまだ昼だ。でも森は静かだった。鳥の声もない。葉擦れもない。ただ乾いた風が吹いている。
そこへ、広場の方から人が駆けてくるのが見えた。若いエルフだった。息を切らしている。
「ファルネさん! ……セグレイス様が、みんなを集めてます! 古い神事を、やり直すって!」
振り返ると、ファルネさんの顔から、さっきまでの温かさが消えていた。
「……神事を?」
「はい。世界樹にお伺いを立てるための、大きな儀式だそうです。準備に日がかかるから、今日から支度を始めろって」
ファルネさんは、俺を見た。何かを言いかけて、やめた。
「清き息を持つ乙女」。さっき聞いたばかりの一節が、頭をよぎった。乙女に選ばれるのは、誰だ。光が暴れたあの日、震えていたリシェルの手が浮かんだ。……考えたくなかった。
俺は歩き出した。薬草畑の奥へ。
パーカーの内側の小枝が指に触れる。月と花の模様。渡せなかった、一本。
今度こそ渡す。
——でも何を、話せばいい?
「息が濃い」と?
「好き」と?
どちらも、まだ言えない。
でも、言わなければ何も変わらない。
嫌われるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。
それでも、彼女が一人で戦っているなら。
俺は隣に行く。




