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エルフの森の歯磨き事情  作者: 藤紫


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第20話「ちゃんと生きるために」

 薬草畑の奥に、リシェルはいなかった。夜が明けても、戻ったという話は聞かなかった。


 セグレイスさんは広場の真ん中に立っていた。


 朝の光が銀色の髪を照らしている。周りにはもう大勢のエルフが集まっていた。朝の小枝を手にした者もいる。遠巻きに、息を呑んでその姿を見ていた。


「ファルネ。遅いぞ」


 ファルネさんは杖をついて俺の前に出た。


「セグレイス。何の騒ぎじゃ」

「我はもう待てん」


 セグレイスさんの声は低かった。でも、その奥に焦りがあった。


「森が枯れ始めておる。精霊が乱れておる。古の作法に従い、世界樹に直接、詫びを入れ、許しを乞う。それが我らの務めだ」


 ファルネさんは静かに首を振った。


「その作法がどんなものか、お前は知っておるのか。……わしは古文書で確かめた。神事の前には、口を清めると。……じゃが、どう清めるのかは書いておらん。ただ――この少年は、毎日、実践しておる」

「……ファルネ。それは、人間のやり方と同じか?」

「……判らん。『清めよ』と書いてある。それだけが、確かなことじゃ」


 セグレイスさんの目が、俺に向いた。


「お前はこの森に来て何日経った」

「……数日です」

「数日」


 セグレイスさんは小さく笑った。温度のない笑い方だった。


「我はこの森で五百五十年生きておる。……なあ、教えてくれ。お前が来る前、この森は少なくとも五百五十年以上、保ってきた。なぜ、今まで気づかなかった。それとも――お前が来てから、何かが変わったとでも?」


 その問いに、俺は言葉を失った。それは違う、と言いたかった。でも、うまく言えなかった。


「答えられぬか」


 ファルネさんが、杖の先で地面を一度突いた。


「セグレイス。薬草の育ちが悪いと、わしが言うたのはいつじゃ。この少年が、小枝を作るより前じゃ」


 セグレイスさんは、ファルネさんを見なかった。


「……今は、この者に問うておる」


 セグレイスさんは静かに続けた。


「我らの口は祈りの器だ。それを、たった数日ここにいるだけの小僧が、清めると言うのか。……なぜ磨く」

「……違います」


 俺は、声を振り絞った。


「清めるのは、俺じゃありません。……口を清めるという行いがある、と話しただけです」


 セグレイスさんの眉が、わずかに動いた。


「なぜ磨く」


 なぜ。


 分からなかった。虫歯にならないのに。必要がないと、当のエルフが言っているのに。それでも――


「……分かりません」


 声が震えた。


「分からない。でも」


 セグレイスさんが、片眉を上げた。


「ミオルは『精霊が近い』と言いました。年配の人は『歌が楽になった』と。リシェルの精霊術も、少し安定した。……偶然かどうかは、まだ分かりません。でも、俺は、それをこの目で見たんです」


 セグレイスさんは何も言わなかった。


「……理由は、うまく言えない。でも、一つだけ、分かることが、あるんです」

「何だ」

「……ちゃんと、生きるため、です」


 セグレイスさんは黙った。


「口の中がきれいだと、食べるのが楽になる。話すのが楽になる。歌うのが楽になる。……それが、ちゃんと生きることだと、思うんです」


 俺は、祖母のことを思い出していた。口の中を磨いてやると、いつもすっきりした顔をした。あの顔が、もう一度、見たかった。


 でも、それは言わなかった。セグレイスさんに伝わる言葉じゃない。


 セグレイスさんはしばらく黙っていた。その目に、何かが揺れた。でも、すぐに消えた。


「その言葉は、人間の言葉だ。エルフは長く生きる。……お前は『見た』と言う。我は『生きてきた』。その差は、大きい」


 セグレイスさんはしばらく、俺を見ていた。


「……お前の言葉を、信じるわけにはいかん。じゃが、お前の言葉で、森が変わるかもしれん。……それが、怖い」


 セグレイスさんは広場の全員に向き直った。


「神事においては、人間の道具は一切持ち込むな。我らの手で、我らのやり方で執り行う」


 その声は、氷のように冷たかった。でも、その奥に焦りが滲んでいる気がした。


 ざわめきが広場を包んだ。セグレイスさんは背を向け、人垣が道を開けた。


 ファルネさんが、小さくため息をついた。


「……これは、困ったのう」


 隣にいた老エルフが、俺をちらりと見た。


「人間の子。……お前さんが悪いわけじゃ、ないんじゃろうがの」


 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


 ファルネさんの横顔が、少しだけ、老けて見えた。


 広場のざわめきの中に、ミオルの姿があった。小枝を握りしめて、俺を見ていた。何か言いたそうだったが、声にはならなかった。


 その時だった。


 ――リシェルが、立っていた。


 広場の端で、こっちを見ていた。目が合った。一瞬で、逸らされた。


 その手に、朝の小枝が握られていた。俺が渡した、あの一本が。


 禁令は、それも禁じたはずだった。それでも、彼女は離さなかった。指の関節が白くなるほど、強く。


 その手が、震えていた。


 俺は一歩踏み出した。でも、足は動かなかった。


 その夜。


 俺はリシェルの家に戻った。


 誰もいなかった。


 パーカーの内側から、月と花を彫った小枝を取り出す。


 渡せなかった、一本。


 もう、渡せないのかもしれない。


 それでも、俺は彫り続けた。


 ――その時。


 背後で、扉が鳴った。


「……明」


 その声で、誰なのか分かった。


 ……リシェル、か。


 俺は振り返れなかった。


 足音が、ゆっくり近づいてくる。


 そして、俺の横で止まった。


 視界の端に、銀色の髪が揺れた。


 白い手が、震えていた。

 

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