第21話「月花模様の試作品」
白い手が、震えていた。
俺の横で止まった、その手。指の関節が、白くなるほど強く握られている。何かを握りしめているわけじゃない。ただ、震えていた。寒さのせいじゃない。森の夜は、それほど冷たくない。
「……明」
リシェルの声が、すぐ横で聞こえた。
俺は、まだ顔を上げられなかった。手の中には、月と花を彫った小枝。さっきまで彫り続けていた、渡せなかった一本。セグレイスさんの禁令に背いて、こっそり続けていた道具だ。
リシェルは、何も言わなかった。ただ、俺の手元を見ていた。
外では、広場のざわめきがまだ聞こえている。禁令の余波。遠くで誰かが声を張り上げている。でも、この部屋の中だけは、やけに静かだった。
「……それ」
リシェルが、ようやく口を開いた。
「何?」
「それ。手にあるの」
俺は、顔を上げた。リシェルの目が、まっすぐ俺の手の中の小枝を見ていた。月と花の模様。浅く彫ったそれは、灯りの影を作っている。
返す言葉が、見つからなかった。隠していたつもりだった。でも、隠しきれていなかった。それが、少しだけ恥ずかしかった。
リシェルは、一歩近づいた。匂いが届く。でも、前より、ずっと薄い。彼女が口を閉じているからだろうか。それとも、俺の鼻が慣れてしまったのか。どちらか分からなかった。
「それ、私の?」
声が、震えていた。さっきの手の震えが、そのまま声に移ったみたいだった。
聞かれて、俺は息を呑んだ。図星だった。でも、すぐに頷けなかった。頷けば、認めることになる。認めれば、説明しなければならなくなる。……いや、もう、逃げるのは終わりだ。そう思った。あの時、リシェルから顔を背けてから、ずっと逃げてきた。逃げて、何も言えないまま、時だけが過ぎた。その間に、森は枯れ始めて、リシェルは一人で戦っていた。だったら、もう。
「……ああ。リシェルのための一本だ」
言ってしまってから、心臓が跳ねた。でも、言い直さなかった。リシェルは、目を見開いた。それから、ゆっくりと、その場にしゃがみ込んだ。膝をついて、俺の手のひらを、両手で包み込むようにして、小枝を覗き込む。
「……本当に?」
「本当だ」
「いつから?」
「……ミオルが広場で試す前から」
リシェルは、指先で、柄の部分をなぞった。そこには、無数の花が彫られていた。最初は、一つだけだった。でも、渡せない日が続くたびに、少しずつ増えていった。気づけば、柄の半分以上が、花で埋まっていた。
「……ミオルより、先に?」
「……うん」
「誰も、まだ、やってなかったのに?」
「……うん」
リシェルは、小さく笑った。
「……花が、いっぱい」
リシェルが、小さく呟いた。
「毎日、少しずつ彫ってたの?」
「……そうなる」
リシェルは、目を伏せた。長い睫毛が小さく震える。
「……嬉しい」
小さな声だった。でも、確かに、そう聞こえた。
それから、顔を上げた。その目が、少しだけ潤んでいるように見えた。
「私ね。明が顔を背けた時」
胸の奥が、冷たくなった。
「嫌われたんだと思った。私が、変なこと聞いたから。……ずっと、そう思ってた。だから、広場で明が小枝を隠すように持ってるのを見て、最初、分からなかった。誰かのためのものかもしれないって。……でも、模様を見て、分かった」
「模様?」
「うん。……月と花」
リシェルは、指先でその模様をなぞった。
「明は、これ、どうしてこの模様にしたの?」
「……分からない」
本当に、分からなかった。深い理由があったわけじゃない。ただ、彫りたいと思った。それだけだ。
「……分からないのに、彫ったの?」
「うん。……手が、勝手に動いてた」
リシェルは、小さく息を吐いた。
「……私ね。明と初めて会った時、月が出てたの」
「……ああ。覚えてる」
「うん。私も。……あの時、そばに、花が咲いてたの。名前、忘れちゃったけど。白い花」
リシェルは、小枝を握り直した。
「だから、これ見て、思ったの。……明、あの時のこと、覚えてたのかなって」
「……覚えてる。でも」
そこで、言葉が止まった。何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。覚えている。でも、この模様を彫った時、あの月のことを考えていたわけじゃない。じゃあなぜ、この模様にしたのか。……分からない。分からないのに、何か言おうとして、言葉が出てこない。
リシェルは、そんな俺を見て、少しだけ笑った。
「うん。……手は、覚えてたんだね」
その言葉に俺は何も返せなかった。ただ、自分の手を見た。小枝を彫った、この手。リシェルに渡すために、何度も刃を当てた、この手。その手が覚えていた何かを、俺はまだ言葉にできない。
リシェルは、俺の顔をじっと見つめた。




