第8話 「朝の小枝、はじめました」
目が覚めると、集落はもう起きていた。
広場の方から、祈りの歌が聞こえる。俺は川へ行き、顔を洗って、歯も磨いた。今日も川砂と布。ざらざらした砂を布に包んで、前歯から奥歯までこする。
(……ああ、すっきりした)
祖母の声が、頭の中で再生される。
その時、茂みの方ががさっと鳴った。振り向くと、小さな顔が覗いていた。
「……ミオル?」
「あっ」
ミオルが飛び出してきた。
「明のお兄ちゃん、何してるの?」
俺の手元をじっと見ている。砂のついた布を。
「歯、磨いてるんだ。口の中を綺麗にするんだよ」
「歯を? 磨く?」
「そう。こうやって、こすると、気持ちいいんだ」
「フーン、へんてこ! ねぇそれ痛くないの?」
「強くやりすぎなければ、大丈夫だよ」
俺はもう一度、奥歯をこすって見せた。
「ミオもやりたい!」
「え」
「ミオも! それ、やりたいの!」
食いついてきた。目が本気だ。
「ちょっと待ってな」
ズボンのポケットからニッパーを出す。プラモデル用の、薄い刃のやつ。
昨日から目をつけていた低木のところへ行った。朝露で湿った細い枝を一本選び、根元に近い少し太い部分に刃を当てる。繊維の流れを見て、どこで切れば先がきれいにほぐれるかを考える。工作は、考えている時間が一番楽しい。
パチン、と音がして、枝が切れた。
「枝をどうするの?」
「朝の小枝は柔らかいから……」
長さは、手のひら二つ分くらい。先端を川原で拾った石で叩いてほぐす。力を入れすぎると折れる。弱すぎると広がらない。何度か角度を変えて、ふわっと繊維が開くのを確認する。
「はい、これ」
「なにこれ?」
「歯ブラシの代わりだよ。口の中に入れて、歯を優しくこするんだ」
渡すと、ミオルはそれをまじまじと見つめて、口に入れた。
「……んんっ! こしょこしょする! こしょこしょするよ、明のお兄ちゃん!」
笑いながら、前歯をこすり始めた。滅茶苦茶な磨き方。
「上と下、分けてもっと優しく。そう、そう」
「こう?」
「そうそう、上手」
「むお、びょうぶ!」
すぐにしゅっしゅっと動かせるようになった。そして川の水で口をゆすいだ瞬間、目を見開いた。
「……あれ?」
舌をモゴモゴと口の中で動かしている。
「歯が、つるつるする! つるつるするよ!」
「だろ?」
「すごい! 明のお兄ちゃん、すごいよ! これ、えーっと、朝の小枝!ねえねえ、これ、リシェルお姉ちゃんにも見せてくる!」
言うが早いか、小枝を握りしめたまま集落の方へ駆けていった。
……しまった。
後を追った。
広場には、祈りを終えたエルフたちが集まっていた。そこにミオルが飛び込んでいく。
「みんなー! 見てー! 朝の小枝だよ!」
広場の空気が変わった。一斉に視線がこっちに来る。俺は足を止めた。
その中に、リシェルがいた。
近づいてくる人の輪。いつもなら身構えるはずの距離。でも、ふと気づいた。今日はまだ、匂いのことを一度も考えていなかった。
「明……それは?」
リシェルの声。昨日より小さい気がした。
俺は喉がからからになった。渡したかった。昨日の夜、こっそり作り始めたもう一本を。でも、渡せない。口の中を綺麗にしてほしい。でも、それをどう伝えればいいのか、まだ分からない。
「えっと……歯を、磨く……道具で……」
「歯を?」
「うん。その……川砂より、こっちのほうが……歯茎に、優しいかなって……」
言葉が続かない。目が合わせられなくて、俺は自分の作った小枝に視線を落とした。
その時、ミオルが大声を出した。
「つるつるして、気持ちいいの! みんなもやってみて!」
広場が、少しざわめいた。年配のエルフの一人が、自分の前歯にそっと指先で触れた。すぐに気づいたように、手を引っ込める。別の一人は、何も言わずに、俺の方をじっと二度見した。
「ほ、ほら、ミオル、もう一回ちゃんと磨いてみようか」
話題を逸らすように言って、ミオルと一緒にしゃがみ込んだ。
視線が、肌に刺さる。
広場の隅で、昨日から、こっそり作り始めていた小枝の装飾を進める。
世界樹の方角に落ちていた、一本の枝。硬すぎず、柔らかすぎない。柄の部分に、ニッパーの先端と小さなナイフで浅く模様を彫る。月と花をモチーフにした。渡すタイミングが来るまで、パーカーの内ポケットに隠しておく。
顔を上げると、遠くでリシェルがこちらを見ていた。口を少し開けて、それからまた閉じるのが見えた。何かを言いかけたのか、言い淀んだのか、分からなかった。
その時、大人たちの輪の中から、声がした。
「……何をしている」
振り向いた。
見たことのない長身のエルフが立っていた。銀色の髪を後ろで結んでいる。厚手の衣。他のエルフとは、まとう空気が違った。視線が鋭く、温度がない。周囲が一瞬静まった。
背中が、ぞっとした。




