第6話「森が、疲れている」
リシェルの視線が、まだ俺に向いている。
「明。どうやって、そんなに白くしたの?」
答えられない。
「……また、今度」
俺は視線を逸らして、布を川の水で濯いだ。
リシェルは少し不満そうに唇を尖らせたが、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ、森を案内するね」
「……うん」
彼女に連れられて、集落の外れへ向かう。木々の間から差し込む光の筋が、歩くたびに角度を変える。空気は相変わらず濃いが、慣れというやつは怖い。もう吐き気を我慢する段階は過ぎていた。
「そこ、薬草畑」
リシェルが指差した先に、背の低い緑の株が並んでいた。行儀よく列を作っているところを見ると、誰かが世話をしているらしい。
「誰が育ててるんだ?」
「集落のみんな、交代で。私も、水やりの当番があるよ」
「へえ」
「明も、やってみる?」
「機会があれば」
社交辞令のつもりだったが、リシェルは「約束ね」と嬉しそうに笑った。近い距離で笑われると、まだ少し身構えてしまう。それでも、昨日よりは、確実に耐性がついている。
木々の切れ間から、ふと、視界が開けた。
遠く、森の中心に、一本の巨木がそびえていた。他のどの木より頭一つ抜けて高く、枝の広がりだけで小さな丘ほどもありそうだった。
「あれが、世界樹」
リシェルが、事も無げに言う。
「この森の、真ん中にあるやつ。みんな、そう呼んでる」
「……でかいな」
「昔からずっと、あそこにあるの」
それだけ言って、彼女はまた歩き出した。俺は、しばらくその巨木から目を離せなかった。
川から少し離れた道を歩いていると、前方に杖をついた小さな影が見えた。
ファルネさんだった。
道の脇に立ち、足元の草を杖の先でそっと突いている。しゃがみもせず、ただじっと見下ろしている姿は、何かを診ている医者のようにも見えた。
リシェルが声をかけた。
「ファルネさん」
老人はゆっくりと顔を上げた。
「おお、リシェルか。人間の少年も一緒か」
「明です」
「うむ、そうであったな」
声の端が、また少し濁っている。さっき川で聞いたときより、はっきりと分かった。舌がうまく回っていないみたいだ。老いのせいだろう。そう思うしかない。
ファルネは、道の脇の草を見つめたまま言った。
「……薬草の育ちが、今年は悪い」
「そうなんですか?」
「葉の色が薄い。背も低い。精霊の光も、以前より見かけることが少なくなった」
老人は目を細めて、森の奥を見た。
「わしには、そう見える。森が、少し疲れておるのかもしれん」
「疲れてる……?」
「長いこと生きておるとな、時々、休むこともある。集落の者も、そう言っておる」
ファルネは、杖をつき直した。
「だが、わしは少し気になってな。古い記録の中に、似たような記述があった気がする」
「古い記録?」
「古文書じゃ。この森の、ずっと昔のことが書いてある。最近、少しずつ読み直しておるところでの」
「……何て、書いてあるんですか」
俺は、思わず聞いていた。ファルネは、杖の先で軽く地面を突いて、少し困ったように笑った。
「まだ、はっきりとは言えん。読み間違いかもしれんし、老いぼれの勘違いかもしれんでな」
「でも、気になってるんですよね」
「……そうじゃな。だから、余計なことは言わぬ方がいい。確かめてもおらんうちに、不安だけ広めるのは、一番良くないことじゃ」
それ以上は言わなかった。ただ、目の奥に、何か考え込むような色が残っていた。
リシェルが、心配そうに老人の顔を覗き込む。
「ファルネさん、無理しないでね」
「心配無用。ただの年寄りが、余計なことを考えておるだけじゃ」
ファルネは、そう言って小さく笑った。笑い方さえ、どこか言葉が濁っている。
「では、わしはこれで」
老人はゆっくりと道を外れていった。リシェルは、その背中を見送った。
俺は、老人の残した言葉を反芻した。
薬草の育ちが悪い。精霊の光が少ない。森が疲れている。そして、古い記録。
俺が自分で気づいたわけじゃない。ただ、ファルネさんの口から出た言葉が、妙に胸に引っかかった。何かがはっきりしないまま、不安だけが形になっていく。そういう感覚だった。
「リシェル」
「なに?」
「森のこと、心配なのか?」
彼女は、すぐに答えなかった。しばらく黙って歩いてから、ぽつりと言った。
「私、生まれた時から、ずっとこの森にいるの。だから、森が変わっていくのは、なんとなく分かる」
「変わってる、のか」
「うん。少しずつだけど」
木漏れ日の中で、銀の髪が揺れている。
しばらくして、リシェルは俺の方を向いた。いつもの笑顔を作ろうとしたのが、分かった。
でも、作りきれなかった。
彼女の顔が、ほんの少しだけ、曇った。




