第5話「川砂と布、または人間の常識」
第4話 リシェルの年齢が三百歳となっておりましたが二百歳の間違いでした。現在は訂正されています。
川の水面に、自分の顔が映っている。
寝癖のついた髪。少し赤い目。そして、白い歯。
俺はしゃがみ込み、川底の砂をすくった。細かくて、柔らかい。指で擦ると、ほどよくざらつく。
布は、リシェルの家で借りた古い布切れだ。昨日の夜、棚の端に無造作に置いてあったものを、朝になってこっそり拝借した。悪びれる気持ちはある。でも、今はこれしかない。
砂を布に少しつけて、歯に当てる。
左右に、優しく動かす。
ザリ、ザリ、という感触が歯の表面を伝う。普段使っている歯ブラシとは全然違う。力を入れすぎると痛い。弱すぎると、磨いている気がしない。角度を変えて、もう一度。上の歯。下の歯。奥の方。
——すっきりする。
ほんの少しだけど、口の中が軽くなる。水で口をすすぐ。川の水は冷たくて、澄んでいた。
「明、何してるの?」
声がして、振り返る。
リシェルが、木の陰から顔を出していた。銀の髪が朝日に透けて、きらきらしている。
「……歯を、磨いてる」
「歯を?」
彼女は近づいてくる。いつもの距離だ。しゃがみ込んで、俺の手元を覗き込む。
「その、砂と布で?」
「ああ」
「不思議」
リシェルは首を傾げた。目が、興味津々で輝いている。悪意も、嘲りもない。ただ、純粋に「知らないもの」を見ている目だ。
俺は、砂をつけた布を少し持ち上げて見せた。
「こうやって、歯の表面を擦るんだ。食べかすとか、歯に残ったものを落とすために」
「落とす……?」
「うん。毎日やると、口の中がきれいになる」
リシェルは、自分の前歯に指を当てて、不思議そうに触った。
「私たちは、そんなことしないよ」
「……そうだよな」
言われてみれば、当然だ。この森に歯ブラシなど存在しない。存在しないから、する必要もない。する必要がないから、誰も疑わない。
俺はもう一度、口をすすいだ。
そのときだった。
「ほう」
低い、穏やかな声がした。
木立の向こうから、老人が歩いてくる。背は低く、杖をついている。銀髪は白に近く、長い耳の先が少し外側に開いている。衣は他のエルフより厚手で、胸元に小さな木の札が下がっていた。
老人は、俺たちの前で足を止めた。
濁った目が、俺の手にある布と砂を捉える。
「ほう。人間は、歯をああやって擦るのか」
声が、少しだけ引っかかる。言葉の端が、丸く濁っている。老いで舌が回らなくなっているのだろう。祖母も、晩年はそうだった。
「……はい。不完全ですけど」
老人は、ゆっくりと頷いた。否定も、嘲笑もしない。ただ、興味深そうに目を細めた。
「わしはファルネ。この集落の、古い記録を預かっておる者じゃ」
「佐藤明です」
「明、か。昨日、森で助けられたという人間の少年だな」
「ええ」
ファルネは、杖の先で地面を軽く突いた。
「歯を清める、か。……面白い」
それだけ言って、老人はゆっくりと歩き出した。去る背中に、リシェルが小さく手を振る。
「ファルネさん、穏やかな人だよ。古文書をたくさん持ってて、時々読み聞かせてくれるの」
「……そうなんだ」
俺は、手の中の布を握り直した。
老人の発音の濁りが、耳に残っている。老いのせいだ。そう思うしかない。でも、どこかで、引っかかった。
リシェルは、まだ俺の顔をじっと見ていた。何かに気づいたような、真剣な目だった。
「明」
「ん?」
彼女は、少し身を乗り出した。
「明。どうやって、そんなに白くしたの?」
「……え?」
「歯だよ。すごく白い。ファルネさんの歯も、私の歯も、こんなに白くない」
真顔だった。からかっている様子は、まるでない。ただ純粋に、不思議に思っている目だ。
俺は、口を開きかけて——止まった。
答えは、簡単だ。毎日磨いているから。それだけだ。でも、その一言を口にした瞬間、リシェルは自分の歯のことを考える。自分の口のことを。そして、いつか——あの匂いのことにも。
「……それは」
言葉が、出てこない。
リシェルは、俺の答えを待つように、じっと見つめている。
うまく笑えているか、自分でも分からなかった。




