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エルフの森の歯磨き事情  作者: 藤紫


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第4話「祖母の記憶、歯ブラシの記憶」

 リシェルの家は、集落の端にあった。


 幹をくり抜いた丸い家。屋根には蔦が絡まり、窓からは月明かりが差し込んでいる。中は、思っていたより広い。薬草の束が天井から吊るされ、棚には木の実をくり抜いた器が並んでいる。床には、編んだ敷物。隅には、小さな寝床が二つ。


 ——同じ部屋か。


 頭の中で、警報が鳴った。十七年間、女子と二人きりの空間で眠った経験など、当然ゼロだ。妹すらいない。だが、動揺を顔に出すわけにもいかない。ここでは、俺は「助けてもらった側」なのだ。


「明は、そっちを使って」


 リシェルが指差したのは、窓際の寝床だった。敷物と、柔らかそうな獣の毛皮が一枚。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 リシェルは、棚から木の器を二つ取り出し、水を注いだ。


「喉、渇いてるでしょ」


 受け取って、口をつける。冷たい。森の水は、驚くほど澄んでいた。匂いもない。空気は濃いのに、水は澄んでいる。その矛盾が、妙に印象的だった。


 リシェルも、自分の器に口をつける。そして、俺の顔をじっと見た。


「明って、お水飲むの、ゆっくりなのね」


「……そう?」


「うん。エルフは、みんな明より早いよ」


 そう言って、彼女は笑う。近い。笑うたびに、森の香りが届く。でも、さっきよりは——いや、慣れたわけじゃない。ただ、体が少しずつ、この濃さに順応しているだけだ。


「リシェルは、ここに長いのか?」


「長い、というか……二百年くらいかな」


 あっさりとした口調だった。彼女にとっては、特別な数字でもないらしい。


「……二百年」


「短命種にはピンとこないよね。私も、あんまり数えたことないから」


 そう言って、くすりと笑う。俺には、その笑い方の意味が、まだよく分からなかった。


「今日は、疲れたでしょ。もう寝る?」


「……そうする」


「うん。おやすみ、明」


「おやすみ」


 リシェルは、自分の寝床に入った。俺も、毛皮にくるまる。目を閉じる。


 ——眠れなかった。


 当たり前だ。異世界に飛ばされて、美少女エルフの家に泊まって、その口臭がすごくて。ラノベなら、ここでドキドキする場面なんだろうな。


 ——残念ながら、俺の鼓動は、もっと別の理由で早かった。


 暗闇の中で、俺は考える。リシェルの口の中。あの、薄い褐色の層。積み重なった、何百年分の何か。エルフは虫歯にならない。あの口の中に、虫歯の痕は一つもなかった。でも——磨いていない。磨かなくても、虫歯にならない。だから、磨く必要がない。必要がないから、磨かない。磨かないから、積み重なる。積み重なったものが、あの匂いを生む。


 理屈は、分かる。


 でも、俺には、どうしても引っかかることがあった。


 俺の祖母は、俺が中学三年の時に倒れた。脳梗塞だった。命は助かったが、左半身に麻痺が残り、それからはほとんど寝たきりになった。母が仕事をしていたから、介護は主に俺と、たまに来るヘルパーさんで回していた。


 最初の頃、俺は何も分かっていなかった。食べさせること。着替えさせること。トイレに連れて行くこと。そういう「目に見えること」だけが介護だと思っていた。


 違った。


 一番大変だったのは、口の中だった。祖母は自分で歯を磨けなくなった。だから、俺が磨いてあげるしかなかった。


 最初は、下手だった。歯ブラシを強く当てすぎて、歯茎から血を出してしまった。祖母は痛いとは言わなかった。ただ、少しだけ、顔をしかめた。それが、すごく堪えた。


 それから、ちゃんと調べた。歯ブラシの当て方。歯茎のマッサージの仕方。口の中を拭くガーゼの使い方。ネットで調べて、ノートに書いて、何度も練習した。


 少しずつ、上手くなった。祖母は、口の中がきれいになると、必ずこう言った。


「……ああ、すっきりした」


 そして、少しだけ、笑った。その「すっきりした」が、俺は、好きだった。口の中がきれいだと、祖母はご飯をよく食べ、話もよくした。逆に汚れていると、黙った。だから俺は、毎日磨いた。朝と、夜と、食後と。三年間、続いた。


 祖母が亡くなったのは、俺が高校二年の時だった。


 最期の夜、俺は祖母の口の中を拭いていた。もう、自分で唾を飲むこともできないくらい弱っていた。ガーゼを水で濡らして、少しずつ、きれいにしていく。祖母は目を閉じていた。でも、拭き終えると、ふっと息を吐いて、小さな声で言った。


「……ありがとう」


 それが、祖母の、最後の言葉だった。


 なんで、今、これを思い出したんだろう。


 暗闇の中で、俺は目を開けた。別に、泣きたいわけじゃない。ただ、リシェルの口の中を見た時、あの薄い褐色の層を見た時、無意識に、祖母の口の中を思い出していた。


 祖母の口の中は、汚れていた。でも、それは祖母のせいじゃない。磨けなかっただけだ。


 エルフも、同じなのか。彼らは磨かない。磨く必要がない。虫歯にならないから。だから何百年も積み重ねてきた。その結果があの匂いだ。でも、彼らは悪くない。誰も彼らに「磨け」と言わなかった。彼ら自身も「磨く」という発想を持たなかった。ただ、そういう生き物だった。それだけだ。


 だったら、俺は、どうすればいい。


 リシェルに言うべきなのか。「君、口が臭いよ」と。助けてもらった相手に。泊めてもらった相手に。初対面の、異世界の、美少女に。


 言えるわけ、ないだろ。


 無理だ。俺の十七年間で、一度も言ったことのない言葉。しかも、好きになりかけた相手に。いや、まだ好きとかじゃない。でも、少なくとも、嫌いじゃない。助けてくれて、泊めてくれて、笑いかけてくれて。そういう相手に、傷つけるかもしれない言葉を、どうやって——。


 でも。


 このまま何も言わなかったら。リシェルはこれからも磨かない。何百年も生きる彼女は、ずっと、あの匂いのまま。それで、本当に、いいのか。


 分からない。


 分からない。でも、一つだけ確かなことがある。俺は祖母の口の中を毎日磨いていた。それは祖母のためだった。でも、それだけじゃない。祖母がすっきりした顔で笑うのを見たかったから。その笑顔が、好きだったから。


 だったら——リシェルの笑顔も、俺は、見たいのかもしれない。まだよく分からない。でも、少なくとも、あの笑顔を、匂いのせいで、遠くから見るだけにはしたくない。


 いや、それは、俺のエゴだ。


 そうだ。俺のエゴだ。リシェルが磨きたいかどうかは、リシェルが決めることだ。俺が「磨け」と言う権利はない。


 ——それでも、エゴでもいい。


 伝えないまま、勝手に諦めるよりは、ずっといい。もし、ちゃんと伝えた上で、それでもリシェルが「磨かない」と選んだら。その時は、受け入れればいい。でも、伝えないまま、勝手に諦めるのは——違う。


 明日、少し、探してみよう。


 まずは、この森に歯磨きの文化があるかどうか。リシェルに直接聞くのは怖い。でも、ミオルなら何か知っているかもしれない。子どもは、大人より、そういうことをあっさり教えてくれることがある。


 いや、そもそも、俺はこの森でどうやって歯を磨くんだ。歯ブラシは地球に置いてきた。ニッパーとバルサ材しかない。バルサ材は柔らかい。先をほぐせば、ある程度の代用にはなる。でも、それだけじゃ磨き心地が悪い。何か、柔らかい繊維が必要だ。布か。薬草か。この森にあるもので、代用できるものは——。


 考えるのは、明日だ。


 今日はもう頭が回らない。嗅覚の疲労が、思考の疲労に直結している。俺は毛皮にくるまって、目を閉じた。


 リシェルの寝息が聞こえる。規則正しい、静かな寝息。その寝息に、匂いはない。でも、朝、彼女が起きたら——また、あの匂いが来るんだろう。


 ——おやすみ、リシェル。


 そして、俺は、ようやく、眠りに落ちた。


 朝。


 目を開けると、リシェルはもう起きていた。


「おはよう、明」


「……おはよう」


 彼女は窓を開けていた。朝の光が差し込んでいる。外から、鳥の声。森の匂い。そして——


「朝ごはん、できてるよ」


 振り返ったリシェルの口から、朝の挨拶と一緒に、あの匂いが流れてくる。


 ——ああ、やっぱり。


 覚悟はしていた。でも、朝一は、やっぱりきつい。でも、昨日よりは、少しだけ、体が慣れている。それが、嬉しいような、悲しいような。俺は、なるべく自然に深呼吸を一つして——それから、笑顔を作った。


「……ありがとう」


 リシェルは、にっこり笑った。


「今日は、森を案内してあげる。明がどこから来たのか、何か分かるかもしれないし」


「……うん」


「その前に、顔、洗ってきたら? 川、すぐそこだから」


「……そうする」


 俺は家を出た。朝の森は、夜とは違う匂いがした。湿った土。若葉。花。そして、どこからか、リシェルの——いや、集落全体の——あの匂いが、風に乗って、時々、届いてくる。


 ——今日、俺は、この森で最初の一歩を踏み出す。歯ブラシを作るために。そして、いつか——リシェルに、ちゃんと伝えるために。


 川の水面に、自分の顔が映った。寝癖のついた髪。少し赤い目。そして、白い歯。


 この歯が、今の俺の、唯一の武器だ。


 そう思うと、少しだけ、笑えた。

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