↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エルフの森の歯磨き事情  作者: 藤紫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/35

第3話「全員、近い」

 集落に入った瞬間、俺は思った。


 ——近い。


 木々の隙間から見えていた灯りの正体は、蔦を編んだ屋根の家々だった。水瓶は素焼きではなく、乾かした大きな木の実をくり抜いたもの。軒先には、獣の骨を削った櫛や、繊維を編みかけの布が無造作に置かれている。生活の気配は、確かにある。


 その生活の真ん中に、俺は放り込まれた。


 最初に出てきた年配の女性が、俺の顔を覗き込んで、目を細める。


「まあ、人間の子なのね。……髪が黒いこと。目は? ああ、こっちも黒い」


 覗き込むたびに、距離が詰まる。品定めするような視線と一緒に、森の匂いが押し寄せてくる。湿った木。熟れた果実。発酵した樹液。そして——さっきリシェルの口元から漂ってきた、あの匂い。


 同じだ。


 俺は、答えなかった。


 答えられなかった、が正しい。喉の奥で言葉が固まって、代わりに息を止めた。止めれば苦しい。吸えば、濃い。どちらを選んでも詰む。俺は、持っていた袋の持ち手を、無意識に強く握り直した。指の感触に意識を逃がす。それだけが、今できる唯一のことだった。


「あらあら、固まっちゃって」


 女性は笑って、俺の肩を軽く叩くと、するりと輪の外へ戻っていった。近さの割に、意外と踏み込んでこない人だった。


「明、大丈夫?」


 隣のリシェルが、心配そうに覗き込む。近い。


「……大丈夫」


「顔、赤いよ?」


「……ちょっと暑いだけ」


 嘘だ。森は涼しい。夜風はむしろ気持ちいい。俺はこっそり、鼻から吸う量を減らした。さっきの女性も、リシェルも、同じ匂いがする。


 確信したのに、口は動かなかった。


 リシェルが少し身じろぎする。


 動けば、匂いが絡みつくように襲いかかってくる。


 逃げ場はない。息を止めれば苦しい。吸えば、濃い。心臓が、早くなる。


 頭の中で、ロボットアニメのヒーローが、街を壊しながら戦っている。


 ——俺の思考は、もう、ほとんど、瓦礫の下だ。


 それでも体だけは、少しずつ学習していた。息を吸うタイミング。顔を背ける角度。半歩分、距離を空ける立ち位置。誰かに気づかれない程度に、俺は自分の呼吸を、この森向けに作り替え始めていた。


「明のお兄ちゃん!」


 足元から声がした。見ると、小さなエルフの女の子が俺を見上げている。銀色の髪、長い耳、大きな緑の瞳。


「ミオはミオ。明のお兄ちゃんは?」


「俺? 明」


「明!」


 嬉しそうに名前を呼んで、ぐっと顔を近づけてくる。子どもだから、まだ大丈夫——そう思おうとしたが、大丈夫ではなかった。それでも俺は、握った袋の持ち手を意識しながら、なんとか持ちこたえた。


 ミオは俺の顔をじっと見つめると、突然、にっこり笑った。


「明のお兄ちゃん、変な匂いする!」


「えっ」


 俺は固まった。まさか、俺もか。今日は風呂にも入っていたはずだ。服だって普通だ。


「……どこが?」


 恐る恐る聞くと、ミオは俺の持っている袋を指差した。


「それ! 木じゃない匂いがする!」


 プラモデル用のニッパー、バルサ材、水性塗料。なるほど、そっちか。心底ほっとした。


「明のお兄ちゃんの歯、白いね!」


「歯?」


 突然の話題に、俺は口元を押さえた。ミオは不思議そうに首を傾げる。


「白いよ?」


「……そうか?」


「うん!」


 言われてみれば。俺は無意識に舌で歯の表面をなぞった。毎日磨いている。朝起きたら磨く。夜、寝る前にも磨く。それだけだ。特別だと思ったことは一度もない。


 その「それだけ」が、この森にはないらしい。


 見回せば、家の軒先には生活の道具がひと通り揃っている。櫛。布を編む道具。木の実をくり抜いた器。どれも、継ぎ目の処理が妙に丁寧だ。こんな状況でも、つい作りの良し悪しに目が行ってしまう自分が、少しおかしかった。なのに、俺はあるものを探していた。


 歯ブラシ。


 ……ない。どこにも、それらしいものが見当たらない。


「リシェル」


「なあに?」


「ここって……」


 言いかけて、止まる。何を聞こうとしているのか、自分でも分かっていた。でも、聞くのが少し怖い。


「……いや、なんでもない」


「そう?」


 リシェルは、それ以上聞かなかった。そのまま俺の手を取る。


「明の泊まるところ、こっちだよ」


「……うん」


 歩き出してすぐ、視線に気づいた。


 遠く、木の柱にもたれるようにして、誰かがこちらを見ていた。


 近づいてはこない。輪に加わることもない。腕を組んだまま、ただ、じっとこちらを見ている。


 他のエルフたちの物怖じない距離感の中で、その一人だけが、明らかに距離を保っていた。


 誰なのか、聞く余裕はなかった。


 手を引かれて歩く。やっぱり近い。それでも、助けてもらった。泊めてもらえる。俺のことを何も知らないのに、受け入れてくれている。そんな相手にいきなり「臭い」なんて言えるほど、俺は図太くない。


 だから今は、黙ってついていくしかない。


 ただ、ひとつだけ、気になっていた。


 ——そもそも。エルフって、歯を磨くのか?

 集落に入った瞬間、俺は思った。


 ——近い。


 木々の隙間から見えていた灯りの正体は、蔦を編んだ屋根の家々だった。水瓶は素焼きではなく、乾かした大きな木の実をくり抜いたもの。軒先には、獣の骨を削った櫛や、繊維を編みかけの布が無造作に置かれている。生活の気配は、確かにある。


 その生活の真ん中に、俺は放り込まれた。


 最初に出てきた年配の女性が、俺の顔を覗き込んで、目を細める。


「まあ、人間の子なのね。……髪が黒いこと。目は? ああ、こっちも黒い」


 覗き込むたびに、距離が詰まる。品定めするような視線と一緒に、森の匂いが押し寄せてくる。湿った木。熟れた果実。発酵した樹液。そして——さっきリシェルの口元から漂ってきた、あの匂い。


 同じだ。


 俺は、答えなかった。


 答えられなかった、が正しい。喉の奥で言葉が固まって、代わりに息を止めた。止めれば苦しい。吸えば、濃い。どちらを選んでも詰む。俺は、持っていた袋の持ち手を、無意識に強く握り直した。指の感触に意識を逃がす。それだけが、今できる唯一のことだった。


「あらあら、固まっちゃって」


 女性は笑って、俺の肩を軽く叩くと、するりと輪の外へ戻っていった。近さの割に、意外と踏み込んでこない人だった。


「明、大丈夫?」


 隣のリシェルが、心配そうに覗き込む。近い。


「……大丈夫」


「顔、赤いよ?」


「……ちょっと暑いだけ」


 嘘だ。森は涼しい。夜風はむしろ気持ちいい。俺はこっそり、鼻から吸う量を減らした。さっきの女性も、リシェルも、同じ匂いがする。


 確信したのに、口は動かなかった。


 リシェルが少し身じろぎする。


 動けば、匂いが絡みつくように襲いかかってくる。


 逃げ場はない。息を止めれば苦しい。吸えば、濃い。心臓が、早くなる。


 頭の中で、ロボットアニメのヒーローが、街を壊しながら戦っている。


 ——俺の思考は、もう、ほとんど、瓦礫の下だ。


 それでも体だけは、少しずつ学習していた。息を吸うタイミング。顔を背ける角度。半歩分、距離を空ける立ち位置。誰かに気づかれない程度に、俺は自分の呼吸を、この森向けに作り替え始めていた。


「明のお兄ちゃん!」


 足元から声がした。見ると、小さなエルフの女の子が俺を見上げている。銀色の髪、長い耳、大きな緑の瞳。


「ミオはミオ。明のお兄ちゃんは?」


「俺? 明」


「明!」


 嬉しそうに名前を呼んで、ぐっと顔を近づけてくる。子どもだから、まだ大丈夫——そう思おうとしたが、大丈夫ではなかった。それでも俺は、握った袋の持ち手を意識しながら、なんとか持ちこたえた。


 ミオは俺の顔をじっと見つめると、突然、にっこり笑った。


「明のお兄ちゃん、変な匂いする!」


「えっ」


 俺は固まった。まさか、俺もか。今日は風呂にも入っていたはずだ。服だって普通だ。


「……どこが?」


 恐る恐る聞くと、ミオは俺の持っている袋を指差した。


「それ! 木じゃない匂いがする!」


 プラモデル用のニッパー、バルサ材、水性塗料。なるほど、そっちか。心底ほっとした。


「明のお兄ちゃんの歯、白いね!」


「歯?」


 突然の話題に、俺は口元を押さえた。ミオは不思議そうに首を傾げる。


「白いよ?」


「……そうか?」


「うん!」


 言われてみれば。俺は無意識に舌で歯の表面をなぞった。毎日磨いている。朝起きたら磨く。夜、寝る前にも磨く。それだけだ。特別だと思ったことは一度もない。


 その「それだけ」が、この森にはないらしい。


 見回せば、家の軒先には生活の道具がひと通り揃っている。櫛。布を編む道具。木の実をくり抜いた器。どれも、継ぎ目の処理が妙に丁寧だ。こんな状況でも、つい作りの良し悪しに目が行ってしまう自分が、少しおかしかった。なのに、俺はあるものを探していた。


 歯ブラシ。


 ……ない。どこにも、それらしいものが見当たらない。


「リシェル」


「なあに?」


「ここって……」


 言いかけて、止まる。何を聞こうとしているのか、自分でも分かっていた。でも、聞くのが少し怖い。


「……いや、なんでもない」


「そう?」


 リシェルは、それ以上聞かなかった。そのまま俺の手を取る。


「明の泊まるところ、こっちだよ」


「……うん」


 歩き出してすぐ、視線に気づいた。


 遠く、木の柱にもたれるようにして、誰かがこちらを見ていた。


 近づいてはこない。輪に加わることもない。腕を組んだまま、ただ、じっとこちらを見ている。


 他のエルフたちの物怖じない距離感の中で、その一人だけが、明らかに距離を保っていた。


 誰なのか、聞く余裕はなかった。


 手を引かれて歩く。やっぱり近い。それでも、助けてもらった。泊めてもらえる。俺のことを何も知らないのに、受け入れてくれている。そんな相手にいきなり「臭い」なんて言えるほど、俺は図太くない。


 だから今は、黙ってついていくしかない。


 ただ、ひとつだけ、気になっていた。


 ——そもそも。エルフって、歯を磨くのか?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。