第3話「全員、近い」
集落に入った瞬間、俺は思った。
——近い。
木々の隙間から見えていた灯りの正体は、蔦を編んだ屋根の家々だった。水瓶は素焼きではなく、乾かした大きな木の実をくり抜いたもの。軒先には、獣の骨を削った櫛や、繊維を編みかけの布が無造作に置かれている。生活の気配は、確かにある。
その生活の真ん中に、俺は放り込まれた。
最初に出てきた年配の女性が、俺の顔を覗き込んで、目を細める。
「まあ、人間の子なのね。……髪が黒いこと。目は? ああ、こっちも黒い」
覗き込むたびに、距離が詰まる。品定めするような視線と一緒に、森の匂いが押し寄せてくる。湿った木。熟れた果実。発酵した樹液。そして——さっきリシェルの口元から漂ってきた、あの匂い。
同じだ。
俺は、答えなかった。
答えられなかった、が正しい。喉の奥で言葉が固まって、代わりに息を止めた。止めれば苦しい。吸えば、濃い。どちらを選んでも詰む。俺は、持っていた袋の持ち手を、無意識に強く握り直した。指の感触に意識を逃がす。それだけが、今できる唯一のことだった。
「あらあら、固まっちゃって」
女性は笑って、俺の肩を軽く叩くと、するりと輪の外へ戻っていった。近さの割に、意外と踏み込んでこない人だった。
「明、大丈夫?」
隣のリシェルが、心配そうに覗き込む。近い。
「……大丈夫」
「顔、赤いよ?」
「……ちょっと暑いだけ」
嘘だ。森は涼しい。夜風はむしろ気持ちいい。俺はこっそり、鼻から吸う量を減らした。さっきの女性も、リシェルも、同じ匂いがする。
確信したのに、口は動かなかった。
リシェルが少し身じろぎする。
動けば、匂いが絡みつくように襲いかかってくる。
逃げ場はない。息を止めれば苦しい。吸えば、濃い。心臓が、早くなる。
頭の中で、ロボットアニメのヒーローが、街を壊しながら戦っている。
——俺の思考は、もう、ほとんど、瓦礫の下だ。
それでも体だけは、少しずつ学習していた。息を吸うタイミング。顔を背ける角度。半歩分、距離を空ける立ち位置。誰かに気づかれない程度に、俺は自分の呼吸を、この森向けに作り替え始めていた。
「明のお兄ちゃん!」
足元から声がした。見ると、小さなエルフの女の子が俺を見上げている。銀色の髪、長い耳、大きな緑の瞳。
「ミオはミオ。明のお兄ちゃんは?」
「俺? 明」
「明!」
嬉しそうに名前を呼んで、ぐっと顔を近づけてくる。子どもだから、まだ大丈夫——そう思おうとしたが、大丈夫ではなかった。それでも俺は、握った袋の持ち手を意識しながら、なんとか持ちこたえた。
ミオは俺の顔をじっと見つめると、突然、にっこり笑った。
「明のお兄ちゃん、変な匂いする!」
「えっ」
俺は固まった。まさか、俺もか。今日は風呂にも入っていたはずだ。服だって普通だ。
「……どこが?」
恐る恐る聞くと、ミオは俺の持っている袋を指差した。
「それ! 木じゃない匂いがする!」
プラモデル用のニッパー、バルサ材、水性塗料。なるほど、そっちか。心底ほっとした。
「明のお兄ちゃんの歯、白いね!」
「歯?」
突然の話題に、俺は口元を押さえた。ミオは不思議そうに首を傾げる。
「白いよ?」
「……そうか?」
「うん!」
言われてみれば。俺は無意識に舌で歯の表面をなぞった。毎日磨いている。朝起きたら磨く。夜、寝る前にも磨く。それだけだ。特別だと思ったことは一度もない。
その「それだけ」が、この森にはないらしい。
見回せば、家の軒先には生活の道具がひと通り揃っている。櫛。布を編む道具。木の実をくり抜いた器。どれも、継ぎ目の処理が妙に丁寧だ。こんな状況でも、つい作りの良し悪しに目が行ってしまう自分が、少しおかしかった。なのに、俺はあるものを探していた。
歯ブラシ。
……ない。どこにも、それらしいものが見当たらない。
「リシェル」
「なあに?」
「ここって……」
言いかけて、止まる。何を聞こうとしているのか、自分でも分かっていた。でも、聞くのが少し怖い。
「……いや、なんでもない」
「そう?」
リシェルは、それ以上聞かなかった。そのまま俺の手を取る。
「明の泊まるところ、こっちだよ」
「……うん」
歩き出してすぐ、視線に気づいた。
遠く、木の柱にもたれるようにして、誰かがこちらを見ていた。
近づいてはこない。輪に加わることもない。腕を組んだまま、ただ、じっとこちらを見ている。
他のエルフたちの物怖じない距離感の中で、その一人だけが、明らかに距離を保っていた。
誰なのか、聞く余裕はなかった。
手を引かれて歩く。やっぱり近い。それでも、助けてもらった。泊めてもらえる。俺のことを何も知らないのに、受け入れてくれている。そんな相手にいきなり「臭い」なんて言えるほど、俺は図太くない。
だから今は、黙ってついていくしかない。
ただ、ひとつだけ、気になっていた。
——そもそも。エルフって、歯を磨くのか?
集落に入った瞬間、俺は思った。
——近い。
木々の隙間から見えていた灯りの正体は、蔦を編んだ屋根の家々だった。水瓶は素焼きではなく、乾かした大きな木の実をくり抜いたもの。軒先には、獣の骨を削った櫛や、繊維を編みかけの布が無造作に置かれている。生活の気配は、確かにある。
その生活の真ん中に、俺は放り込まれた。
最初に出てきた年配の女性が、俺の顔を覗き込んで、目を細める。
「まあ、人間の子なのね。……髪が黒いこと。目は? ああ、こっちも黒い」
覗き込むたびに、距離が詰まる。品定めするような視線と一緒に、森の匂いが押し寄せてくる。湿った木。熟れた果実。発酵した樹液。そして——さっきリシェルの口元から漂ってきた、あの匂い。
同じだ。
俺は、答えなかった。
答えられなかった、が正しい。喉の奥で言葉が固まって、代わりに息を止めた。止めれば苦しい。吸えば、濃い。どちらを選んでも詰む。俺は、持っていた袋の持ち手を、無意識に強く握り直した。指の感触に意識を逃がす。それだけが、今できる唯一のことだった。
「あらあら、固まっちゃって」
女性は笑って、俺の肩を軽く叩くと、するりと輪の外へ戻っていった。近さの割に、意外と踏み込んでこない人だった。
「明、大丈夫?」
隣のリシェルが、心配そうに覗き込む。近い。
「……大丈夫」
「顔、赤いよ?」
「……ちょっと暑いだけ」
嘘だ。森は涼しい。夜風はむしろ気持ちいい。俺はこっそり、鼻から吸う量を減らした。さっきの女性も、リシェルも、同じ匂いがする。
確信したのに、口は動かなかった。
リシェルが少し身じろぎする。
動けば、匂いが絡みつくように襲いかかってくる。
逃げ場はない。息を止めれば苦しい。吸えば、濃い。心臓が、早くなる。
頭の中で、ロボットアニメのヒーローが、街を壊しながら戦っている。
——俺の思考は、もう、ほとんど、瓦礫の下だ。
それでも体だけは、少しずつ学習していた。息を吸うタイミング。顔を背ける角度。半歩分、距離を空ける立ち位置。誰かに気づかれない程度に、俺は自分の呼吸を、この森向けに作り替え始めていた。
「明のお兄ちゃん!」
足元から声がした。見ると、小さなエルフの女の子が俺を見上げている。銀色の髪、長い耳、大きな緑の瞳。
「ミオはミオ。明のお兄ちゃんは?」
「俺? 明」
「明!」
嬉しそうに名前を呼んで、ぐっと顔を近づけてくる。子どもだから、まだ大丈夫——そう思おうとしたが、大丈夫ではなかった。それでも俺は、握った袋の持ち手を意識しながら、なんとか持ちこたえた。
ミオは俺の顔をじっと見つめると、突然、にっこり笑った。
「明のお兄ちゃん、変な匂いする!」
「えっ」
俺は固まった。まさか、俺もか。今日は風呂にも入っていたはずだ。服だって普通だ。
「……どこが?」
恐る恐る聞くと、ミオは俺の持っている袋を指差した。
「それ! 木じゃない匂いがする!」
プラモデル用のニッパー、バルサ材、水性塗料。なるほど、そっちか。心底ほっとした。
「明のお兄ちゃんの歯、白いね!」
「歯?」
突然の話題に、俺は口元を押さえた。ミオは不思議そうに首を傾げる。
「白いよ?」
「……そうか?」
「うん!」
言われてみれば。俺は無意識に舌で歯の表面をなぞった。毎日磨いている。朝起きたら磨く。夜、寝る前にも磨く。それだけだ。特別だと思ったことは一度もない。
その「それだけ」が、この森にはないらしい。
見回せば、家の軒先には生活の道具がひと通り揃っている。櫛。布を編む道具。木の実をくり抜いた器。どれも、継ぎ目の処理が妙に丁寧だ。こんな状況でも、つい作りの良し悪しに目が行ってしまう自分が、少しおかしかった。なのに、俺はあるものを探していた。
歯ブラシ。
……ない。どこにも、それらしいものが見当たらない。
「リシェル」
「なあに?」
「ここって……」
言いかけて、止まる。何を聞こうとしているのか、自分でも分かっていた。でも、聞くのが少し怖い。
「……いや、なんでもない」
「そう?」
リシェルは、それ以上聞かなかった。そのまま俺の手を取る。
「明の泊まるところ、こっちだよ」
「……うん」
歩き出してすぐ、視線に気づいた。
遠く、木の柱にもたれるようにして、誰かがこちらを見ていた。
近づいてはこない。輪に加わることもない。腕を組んだまま、ただ、じっとこちらを見ている。
他のエルフたちの物怖じない距離感の中で、その一人だけが、明らかに距離を保っていた。
誰なのか、聞く余裕はなかった。
手を引かれて歩く。やっぱり近い。それでも、助けてもらった。泊めてもらえる。俺のことを何も知らないのに、受け入れてくれている。そんな相手にいきなり「臭い」なんて言えるほど、俺は図太くない。
だから今は、黙ってついていくしかない。
ただ、ひとつだけ、気になっていた。
——そもそも。エルフって、歯を磨くのか?




