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エルフの森の歯磨き事情  作者: 藤紫


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第2話「女神、または森の神」

 人影は、月明かりの下に出た。


 ——美少女だった。


 銀色の髪を長く伸ばして、耳の先が、長く、尖っている。エルフだ。俺の人生で一番信用してきた書物——ラノベ——が全部正しかったとは言わないが、今ばかりは、当たっていた。異世界。エルフ。実在。


 彼女は、弓を背に回して、俺の前まで歩いてきた。


「怪我はない? 顔、見せて」


 しゃがみこんで、覗き込んでくる。


 近い。


 月明かりの下で、瞳の色が、はっきりと見えた。新緑みたいに薄い緑。長い睫毛が、瞬きのたびに影を落とす。肌は、森の空気より澄んでいるように見えた。


 近い。


 いや、美人だ。


 女神だ。


 俺の十七年間——模型に没頭し、休み時間の話題からは半歩離れ、それでも毎日にように祖母の晩飯の心配をして家に帰る、あの十七年間——は、どこかで正しく報われていたらしい。転生はある。物語はある。女神は、いる。


(ビバ、異世界)


 ……そう思った時間は、正確に、三秒だった。


 彼女が、笑った。


「よかった。人間の男の子ね。こんな夜の森に一人で、よく無事でいたわね」


 顔が、近い。


 笑顔が、近い。


 息が、聞こえる距離だった。


 そして——息が、来た。


 発酵した果実。湿った古木。熟れすぎた樹液。木の実の酒を煮詰めたような、深い、重い匂い。森の空気そのものが、彼女の口から、まっすぐ俺の顔に流れ込んでくる。


「——っ」


 俺は、半歩、下がっていた。


 自分の意思じゃない。膝の震えですらなく、体が勝手に、距離を取った。


 鼻の奥が熱い。肺まで、その濃さが染み込んでくる。腹の底から、昼に食った弁当の卵焼きが逆流してきそうな気配がする。甘いのに、重い。自然なのに、濃すぎる。森が、息として吐き出されているみたいだった。


「あら」


 彼女は、目を丸くして、首を傾げる。


「人間の男の子って、近くで話すと照れるのね」


 照れてない。


 照れてるんじゃ、ない。


 俺は何かを言おうとして、口を開いて、閉じた。十七年間、異性との会話経験値が「ない」ことだけは、まったく自信を持って言える。この緊急事態に、言葉が、どこにも見つからない。


 彼女は、さらに少しだけ顔を寄せた。


 心配そうな目。悪意のない笑顔。長い髪が、肩から滑り落ちて、俺の視界を銀で染める。


 ——理想のエルフだ。


 ラノベで何百回も読んで、模型で何体も組んで、妄想の中でだけ会ったことのある、あの存在そのものだ。


 なのに。


 この息は、ただごとじゃない。


 俺は、喉の奥で小さくむせた。目が少し潤む。それでも彼女は、それを「照れ」だと解釈したまま、優しく微笑んでいる。


 言わなきゃいけない気がする。


「少し、離れてくれ」でも何でもいい。このままでは、俺は彼女の顔をまともに見られない。


 でも、口が動かない。


 初めて会った相手に、助けてもらった相手に、何をどう伝えればいいのか、皆目わからない。


 俺は、精一杯の誠意を絞り出した。


「……女神様」


「?」


 彼女は、きょとんとして——それから、小さく笑った。


「森の神、ね。初対面でそんなこと言うの、あなたが初めてよ」


 その笑顔は、本当に、悪くない。


 悪くないんだが。


 女神の息は、森の匂いがする。


 言った直後から、猛烈に恥ずかしくなった。顔が、多分、赤い。今すぐこの場に穴を掘って埋まりたい。十七年間、こんな台詞を口にする機会など一度もなかったのに、なぜよりによって初対面の異世界人相手に開放してしまったのか。自分の口が、一番の敵だった。


 彼女は立ち上がると、軽く肩の埃を払った。


「夜の森は危ないわ。さっきみたいな獣も出るし。集落まで行きましょう。私の家に泊まれるから」


「え……いいんですか」


「もちろん。一人で放っておけないもの」


 そこでようやく、彼女は名乗った。


「私はリシェル。あなたは?」


「……佐藤明です。明で」


「明ね」


 リシェルは、その名前を確かめるように、小さく繰り返した。


 彼女はそう言って、先に歩き出す。長い銀髪が、月明かりの下で緩やかに揺れた。


 俺は袋を抱え直して、その後ろについた。


 歩くうちに、森の匂いが変わっていくのがわかった。獣くさい闇の匂いから、湿った土と、甘い花の匂いへ。人の手が入っている森は、匂いから違うらしい。


 リシェルの後ろ姿は、迷いがなかった。慣れた足取りで、暗がりの中の道を選んでいく。俺は何度も木の根につまずきかけて、そのたびに彼女が振り返っては笑った。


「足元、気をつけて」


「……すみません」


「謝らなくていいのよ。人間の目は、私たちより夜が見えにくいんだもの」


 当たり前のように優しい。


 その優しさの分だけ、さっきの息の濃さが、余計に居心地悪く感じられた。


 前方、木々の隙間から、小さな灯りがいくつも見えてくる。


 集落だ。


 理想のエルフは、近くで話すと、息が濃すぎた。


 それでも俺は、彼女の後を追うことしかできなかった。

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