第1話「森の匂いがする」
——森の匂いが、する。
湿った腐葉土。ツンと鼻をつく樹脂の香り。どこか遠くで、果実が発酵している甘酸っぱさ。それらが全部、いっぺんに肺まで入ってくる。空気が、やたらと「濃い」。
気づいた時、俺は、見知らぬ森の真ん中に立っていた。
夕方の、少し薄暗い森。
手には、ホームセンターの袋。中身はプラモデル用のニッパーと、バルサ材の薄板、水性塗料の瓶が三本。部活もなければ彼女もいない放課後に、「今夜こそ模型を仕上げる」と思って買った物資だ。
帰り道、交差点を渡ろうとした。そこから先の記憶がない。白い光にアスファルトごと飲み込まれて、次に見えたのが、この森だった。
ポケットのスマホを取り出す。圏外。時計は動いている。日付は土曜日。
「……まずいぞ」
完全に、まずい。俺はこの手の物語を、ラノベで何百話も読んできた。読む側はもう卒業したつもりだったが、卒業証書に押したハンコは、どうやら押し間違いだったらしい。
頭の奥で、事務的な声が、一回だけ鳴った。
『——チート能力は、ありません』
「…………」
無いのか。
はっきり言われると、逆に清々しい。チートがあってもこの森から出られる保証はない。とりあえず、手もとにあるものでやるしかない。
装備を確認する。ニッパー、バルサ材、塗料の瓶、圏外のスマホ、小銭入れ、飴二つ。紙も鉛筆も無い。異世界召喚装備としては、最底辺だ。
歩く。高い木を探して、目印をつける。バルサ材をニッパーで短く切り、上向きの矢印に削って、先を尖らせ、木肌に刺していく。工作は得意だ。手を動かしている間だけは、心臓が少し静かになる。
一本目。二本目。三本目。
木の幹は、種類によって手触りが違う。ざらついたもの。しっとりしたもの。匂いも違う。ミントに似た清涼感のある木があるかと思えば、腐りかけの果物みたいに甘くて重い匂いを放つ木もある。森は、目より先に鼻で覚えていく方が早い。
二時間。矢印は二十七本。森は、終わらなかった。
同じような木が続く。同じような影が続く。スマホのコンパスを開いても、針は安定しない。この森は、磁気までおかしいのかもしれない。
日が落ちる。
羽虫の羽音が、急に大きくなる。あちこちで枝が折れる音がする。遠くで、吠えるような、笑うような声。
——臭い。
急に、鼻の奥が刺激される。濡れた毛と、錆びた金属を混ぜたような、嫌な匂いだ。風向きが変わるたびに、濃くなったり薄くなったりする。今まで嗅いできた木々の匂いとは明らかに違う。異物の匂いだ。
俺は太い木の根元に身を縮め、袋からニッパーを取り出した。
ニッパーで、何をどう戦えというのか。分かっている。それでも、手持ちの装備はこれしかない。構えていることで、どうにか自分を保っているだけだ。
匂いが、濃くなる。枝を折る音が、近づいてくる。
草むらの暗がりに、光る目が二つ。
低い唸り。背中を冷たい汗が伝う。足先が、地面に貼りついたみたいに動かない。指が痺れて、ニッパーの感触が遠のく。息が浅くなって、喉がひゅっと鳴った。
目が、ゆっくりと動く。俺の方を見ている。距離は、もう十メートルもない。
「……来るな」
声が、裏返った。自分に言い聞かせているだけだ。
獣は、一歩、前に出た。
その時。
ヴィッ、と、弦を弾く音がした。
唸り声がぴたりと止まる。獣は首筋に何か——枝を束ねた丸い矢——を受けて、鳴き声一つなく闇の中へ逃げていった。あの錆びた匂いも、一緒に遠ざかっていく。
沈黙が落ちる。
俺はニッパーを握ったまま、動けなかった。指が、まだ痺れている。呼吸を、意識して戻す。
「……大丈夫?」
闇から、声がした。
日本語だ。少しだけ母音が長い。歌うみたいな抑揚。ふわりと、花に似た香りが風に混じって届く。さっきまでの錆びた匂いとは真逆の、澄んで、きれいな匂いだった。
振り返る。
弓を構えた人影。
長い髪。細い手足。草木の繊維で織ったような、緑がかった衣。月明かりが雲から洩れて、その輪郭を銀で縁取っている。
人影は、弓を下ろして、ゆっくりと近づいてくる。
俺は、まだニッパーを離せなかった。助けてくれたのか。それとも、次は俺が矢を受ける番なのか。
人影は、止まらない。
月明かりの下へ、その姿が、少しずつ浮かび上がってくる。




