第33話「馴染んだ、身体」
世界が、一枚、剥がれた。
最初に気づいたのは、光だった。
広場の灯りとは違う。木の枝にも、杯の縁にも、ミオルの髪にも、小さな光の粒が、ふわふわと浮いている。緑。白。淡い金。さっきまで、こんなものは見えなかった。いや、ずっとそこにあったのに、見えなかったのか。
次に、音。
祝宴のざわめきの下に、別の音が流れていた。風でも、葉擦れでもない。細くて、高くて、歌のような。意味は分からない。ただ、数えきれないほどの声が、薄く重なっている。
「……何だ、これ」
声が、掠れた。手首を掴んでいたファルネさんの指が、そっと離れる。目を見開いて、俺の周りを見ている。
自分の手を見た。光の粒に、指を伸ばす。触れた、と思った瞬間、粒は指の間で、ふっと弾けた。冷たくも、熱くもない。ただ、そこに、確かにあった。
「それは、リシェルが息を吹き込んだ、神酒じゃ。命を分け与える酒を、人の身が飲んだ」
声は、静かだった。でも、指先がまだ震えている。
光の粒が、集まってくる。一つ、また一つ。肩に、髪に、杯を持つ指に。くすぐったい。払おうとしても、逃げない。
そこで、気づいた。
喉の渇きが、消えている。
それだけじゃない。息が、楽だった。広場にあふれる匂いが、息苦しくない。人の熱気も、果実酒の甘ったるさも、ちゃんと、ただの匂いとして鼻を通っていく。まるで、体のほうが先に、この森に馴染んでしまったみたいだった。
「精霊が、あんなに……」
「人の子に、あんなに集まるなんて……」
周りで、ひそひそと声が上がる。いつの間にか、俺とファルネさんを囲むように、輪ができていた。輪の中には、おばあちゃんの姿もある。誰も、近づいてこない。畏れるような目で、いつもなら笑いながら顔を寄せてくる人たちが、半歩分、距離を空けている。
初日は、近づかれて息ができなかったのに。離れられると、それはそれで落ち着かない。
頭の奥で、事務的な声が、一回だけ鳴った。
あの時と同じ声。周りの誰にも、聞こえていない。
『——チート能力は、ありません。寿命は、副作用です』
副作用って、普通は悪い方に出るもんだろ。……いや、これはどっちだ。
寿命。
その二文字だけが、頭の中で、ぽつんと浮いた。
「明のお兄ちゃん!」
足元から、ミオルが飛び出してきた。俺の周りの光を見上げて、目をきらきらさせている。
「精霊さんが、いっぱい!」
小さな指で、光の粒を指す。それから、ぴょん、と跳ねた。
「エルフになっちゃった! やった〜なの!」
広場が、静まり返った。
果実酒の器を持ったまま固まる者。口を開けたまま動かない者。輪の中で、おばあちゃんが、杯を落とした。すとん、と軽い音がした。
ラノベは何百話も読んできた。卒業したつもりでいた。
卒業証書のハンコは、やっぱり押し間違いだったらしい。こんなベタな——
視線を感じた。
主賓席から、リシェルが、俺を見ていた。席を立つこともなく、ただ、まっすぐに。
光の粒が、ふわりと、また一つ肩に乗る。
寿命って、何年だ。




