第32話「乾杯、そして誤飲」
祝宴は、広場で開かれた。神事が終わり、日が落ちても、森全体がまだ淡く光っている。木の枝には飾りが吊るされ、広場の中央には、木の実をくり抜いた大きな器がいくつも並んでいた。中には果実酒。発酵した甘い匂いが、あちこちから漂ってくる。その隣には、色の薄い果実水の器もあった。
リシェルは、主賓の席にいた。ファルネさんの隣。銀色の髪に花の飾りがつけられ、周りのエルフたちに祝福の言葉をかけられている。少し照れながら、笑っている。席の脇の低い台には、琥珀色の杯が一つ、手つかずで置かれていた。セグレイスさんの姿は、見当たらなかった。
俺は、会場の端の、さらに端。木の陰に立って、果実酒の器を手に取った。一口、含もうとした、その時だった。
「明のお兄ちゃん! それ、大人の飲みものだよ!」
足元から、弾んだ声がした。ミオルが、俺の手元をじっと見上げている。両手には、色の薄い果実水の杯を抱えていた。
「明のお兄ちゃん、体は大きいけど、ミオより年下なんでしょ! 子供が飲むのは、こっち!」
ぐい、と果実水の杯を差し出される。年下。確かに、エルフの尺度からすれば、俺は赤ん坊みたいなものだ。反論できなかった。俺は果実酒を置き、果実水を受け取った。冷たい。一口飲むと、甘酸っぱい味が広がった。ミオルは、満足そうに頷いて、またどこかへ走っていった。
その直後、朝の小枝を持ったエルフたちが、次々に寄ってきた。
「明くん! この小枝、どうやって作るの?」
「ここは、どう削るの?」
「俺も作ってみたい!」
距離が、近い。以前より匂いは薄い。磨く者が増えたからだろう。でも、全員じゃない。まだ濃い人もいる。それが何人も重なると、息を吸うのが、少し躊躇われた。俺は、無意識に口呼吸に切り替え、半歩、後ろへ下がった。それでも、顔が近い。笑いかけてくる。悪意はない。ないのだが。
「あの、順番に……」
「ここは、どうやるの?」
「ちょっと待って……」
じりじりと後ずさる。人が、来る。後ずさる。また来る。気づいた時には、木の陰からずいぶん離れた場所まで来ていた。ポケットに手を突っ込み、指先で、残った一つだけの飴の包みを握った。かさ、と小さく鳴る。それだけで、少しだけ、息がしやすくなった。
ふと、人影が近づいてくるのに気づいた。厚手の衣。銀色の髪を後ろで結んでいる。セグレイスさんだった。
祝宴の喧騒が、遠くに聞こえる。ここだけ、空気が違った。俺は背筋を伸ばした。セグレイスさんは、俺の前で止まった。
「……小僧」
低い声だった。俺は、返事をしようとして、やめた。
「我は、森を守らねばならん」
セグレイスさんは、俺を見ていなかった。世界樹の方角を、見ていた。
「神託で、清めよと世界樹様は仰られた。その意味を、ファルネたちと調べ直す」
一拍、置いた。
「人間の行いを認めるわけではない。まねるわけでもない。我らエルフの、忘れ去られし『清め』を取り戻すのだ」
その声は、静かだった。怒りでも、蔑みでもない。ただ、決意だった。俺は、何も言えなかった。セグレイスさんは、俺を一瞬だけ見て、背を向けた。厚手の衣が、夜の闇に溶けていく。足音は、しなかった。
残された俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。喉が、カラカラだった。
広場の方へ歩き出した。リシェルの姿を探した。主賓席に、まだいた。誰かと話して、笑っている。その笑顔を見て、少しだけ、ほっとした。でも、喉の渇きは収まらなかった。
席の脇の台に、杯があった。木の実をくり抜いた、小さな杯。琥珀色の液体。
手に取る。冷たい。口をつける。喉が鳴った。
「……おいしい」
もう一口。杯を傾けた。
「……お前、何を飲んだ」
声がした。振り返ると、ファルネさんが立っていた。その顔から、血の気が引いていた。俺の手にある杯を、じっと見ている。
「え? これ、お茶じゃないの?」
ファルネさんは、答えなかった。杯を見つめたまま、ゆっくりと、俺の手首を掴んだ。節くれだった指が、震えていた。




