第31話「世界樹が声を上げる」
静かだった。
誰一人、言葉を発することもなく、ただ時間だけが流れていった。
音がした。
その沈黙を揺るがすような音……いや、音というより、何かが震えたような感覚だった。
足元の大地から、幹を伝い、枝葉の隅々へ。森全体が、深く息を吸い込むように震えている。
その震えに合わせて、世界樹の光が、幹の根元から、葉の先から、中心へと集まっていく。
神事の場にいた誰もが、顔を上げた。
世界樹の葉が、一枚、また一枚と揺れ始める。
風はない。
それなのに、葉擦れの音が幾重にも重なっていった。
その音の奥から、声が響いた。
誰かが口を開いたわけではない。
耳で聞いているはずなのに、声は頭の中に直接流れ込んでくる。
聞き覚えのない言葉だった。
それなのに、意味がわかる。
古い言葉が、ひとつひとつ胸の奥に落ちてくる。
『გაწმინდეთ, დაალაგეთ და სისუფთავე.』
『სუნთქვა სიცოცხლის დასაწყისია, სიმღერა კი ტყესთან კავშირია.』
『გახსოვდეთ, თქვენ, ვინც დაგავიწყდათ.』
声が途切れた。
それでも、誰も動かなかった。
リシェルが、小さく息を呑む。
俺は、懐の歯ブラシを握りしめた。
セグレイスさんは、世界樹を見上げたまま立ち尽くしていた。
その膝が、わずかに揺れる。
倒れかけた身体を、彼はどうにか踏みとどまらせた。
「……だが……世界樹の言葉と、小僧の思いつきが、同じとは限らん」
声は、いつもよりかすれていた。
俺は何も言わなかった。
息は命の始まり。
歌は森との契り。
初めてこの集落に来たときの、あの森の香り。
古文書に残されていた、清き息。
俺は、何を変えようとしてきたのだろう。
胸の奥で、いくつもの記憶が重なった。
そして最後に浮かんだのは、リシェルに渡した月花模様の小枝だった。
「せかいじゅさま、しゃべった!」
弾んだ声が、静寂を破った。
ミオルだった。
「言葉、わかんないのに、わかるの! すごーい! でもね」
小さな指が、俺を指さす。
「いってること、明のお兄ちゃんも言ってたよ! ね、おばあちゃん!」
突然名前を呼ばれ、俺は返事もできずに立ち尽くした。
おばあちゃんは、俺を見た。
それから、世界樹へと視線を戻した。
「……そうかい」
ほんの少し、目を細め、俺を見つめた。
「この子は、ずっと同じことをしてきたんだねぇ」
それ以上は言わなかった。
ファルネさんは、世界樹を見上げたまま、長いこと黙っていた。
やがて、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
「……清めよ……やはり、そういうことじゃったか」
歌声が聞こえた。
最初は、年配の女性の声がひとり。
いつもと変わらぬはずの歌声が、静かに神事の場へと広がっていく。
別の声が重なった。
さらに、もうひとつ。
ミオルの、たどたどしい歌声も重なった。周りの子どもたちも、ためらいながら歌い始める。
違う高さの声が重なっても、互いをかき消さなかった。
幼い声も、かすれた声も、その中に溶け込んでいく。
俺はリシェルを見た。
彼女は、歌っていた。
迷いのない声だった。
その声が、ほかの歌声と重なった。
世界樹の葉が、淡く光った。
光は葉から葉へと伝わり、枝を満たしていく。
やがて、世界樹を包む歌声が、森の奥へと溶けていった。
歌が終わり、辺りに静寂が戻った。
セグレイスさんは、唇を開きかけた。
「……我も……」
そこまで言って、口を閉じる。
しばらくして、彼はもう一度、世界樹を見上げた。
噛み締めていた奥歯が、僅かにゆるんだように見えた。
「……歌の響きは……確かに、前より澄んだ」
世界樹の言葉、ルビ、読めましたかね?
言葉自体は不正確かもしれません。雰囲気として見ていただければ、幸いです。




