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エルフの森の歯磨き事情  作者: 藤紫


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第30話「息を、吹き込む」

 夜明け前、リシェルは作業台の前に座っていた。

 布の上には、世界樹の産毛で作った歯ブラシと、小さな器に入った練り粉。

 リシェルは練り粉を毛先につけ、口に含んだ。

 しゃり、しゃり、と小さな音がする。

 前歯。奥歯。歯と歯茎の境目。

 手を止めず、一つずつ確かめるように磨いていく。

 口をすすぐ。

 水音が静まるまで、リシェルは顔を上げなかった。

 やがて、使い終えた歯ブラシを布で包み、俺に差し出した。


「……お願い」


 俺は両手で受け取った。

 懐にしまい、布の上から一度だけ押さえる。


 リシェルは、もう一本の小枝を取り出した。

 柄には、月と花が彫られている。

 親指が花の彫り目をなぞった。

 それから、小枝は彼女の懐に消えた。

 リシェルが立ち上がる。

 俺たちは、何も言わずに家を出た。


 神事の場には、集落の者たちが集まっていた。

 世界樹へ続く道を、祭具を運ぶ者たちが静かに進んでいく。

 子どもたちも、今日はふざけることなく、大人たちの後ろを歩いていた。

 おばあちゃんに手を引かれたミオルが、口をぎゅっと結んで、リシェルの背中をじっと見ている。

 

 世界樹の前に、セグレイスさんが立っていた。

 俺たちに気づき、視線だけを向けてくる。

 目が合った。

 息が、喉につかえた。

 俺は懐の歯ブラシを、上着の上から押さえた。


 ファルネさんが、リシェルの前に進み出た。

 手には、古い木の板がある。


「巫女の務めを、確かめる」


 節くれだった指が、板の上をなぞった。


「『神事に臨む者、これを口に含み、息を整えよ。清き息を持つ乙女、神酒に命を吹き込み、世界樹へ捧げよ』」


 ファルネさんは、板から顔を上げた。


「これが、巫女の務めじゃ」

「はい」


 リシェルは一礼した。

 祭壇へ向かう。

 そこには、淡い琥珀色の神酒が満ちた器が置かれていた。

 発酵した果実の香りが、かすかに漂っている。

 初めて会った夜の、リシェルの息に似ていた。

 けれど、湿った古木のような重さはない。

 リシェルは器を見つめ、それから世界樹を仰いだ。


 歌が始まった。

 リシェルの声が、森に響く。

 誰も声を立てなかった。

 歌は木々の間を抜け、遠くへ伸びていく。


 俺は、彼女の歌を聞いていた。

 歌に誘われるように、精霊たちの光が集まり始める。

 一つ。

 また一つ。

 リシェルの周りを、小さな光が寄り添うように漂った。


 歌が終わる。

 静寂が戻った。

 リシェルは祭壇へ進み、神酒の器を両手で持ち上げた。


 唇を近づける。

 飲まない。

 息を、吹き込んだ。

 器の中で、淡い光が揺れた。

 光が立ち上がり、彼女の息に乗って、世界樹へ伸びていく。

 幹に触れた。


 そして――


 消えた。


 誰も、声を出さなかった。

 リシェルが振り返る。

 俺を見た。

 肩が、小さく震えていた。

 何もできなかった。

 ただ、目を逸らさずに見返した。

 リシェルは、ゆっくりと世界樹へ向き直った。

 セグレイスさんは黙ったまま、世界樹の根元を睨んでいる。

 顎に、力が入っていた。

 ファルネさんは眉を寄せ、リシェルを見つめている。

 リシェルの手が、器を握りしめた。

 風が止んだ。


 葉が一枚、ひらりと落ちた。


 その葉が地面に触れるより先に――

 世界樹の幹に、光が走った。


 枝へ。

 葉へ。

 頭上に広がる葉脈が、淡い光を帯びていく。

 誰かが、息を呑んだ。

 集まっていた精霊たちが、一斉に舞い上がる。


 森が、光に包まれた。

 懐の中で、歯ブラシがかすかに温もりを帯びた。

 俺は、上着の上からそっと押さえた。

 気づいたのは、俺だけだった。

 顔を上げる。

 リシェルが、世界樹を見つめていた。

 器を、そっと祭壇に戻す。

 中の神酒は、まだかすかに光を残して揺れていた。

 その頬を、涙が一筋伝っていく。

 

 やがて、セグレイスさんがゆっくりと顔を上げた。

 光に照らされた葉を見つめたまま――

 何も言わなかった。

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