第29話「近距離の逆転」
夕食のあと、リシェルは懐から布包みを取り出した。解くと、産毛の束が灯りの下で白く立った。隣に、練り粉を入れた小さな器も置く。
「明日の朝も、これで磨く」
歯ブラシを見つめたまま、リシェルが言った。
「神事の場には、持っていけないかもしれない。それでも、私が、決めたから」
俺は、何も言わずに頷いた。
リシェルは歯ブラシに練り粉をつけ、口に含んだ。しゃり、しゃり、と小さな音がする。前歯。奥歯。最初は順調だった。けれど、奥歯の裏に差しかかったところで、手が止まった。
歯ブラシを持つ手が、宙で迷っている。口をゆすぎ、もう一度含む。今度もすぐに抜いた。眉の間が、少し寄っている。
「……明」
口元を手の甲で拭って、リシェルが言った。
「奥のほう、うまく当たらないの。どの角度で入れればいいのか、分からなくて」
灯りを挟んだ向こうから、まっすぐ俺を見ている。いつもなら、もっと近い。今日は、わざわざ遠くに立っていた。
「……教えて」
頷くまで、少し時間がかかった。心臓が、うるさかった。
「口、開けて」
近づく。一歩分。リシェルが、ほんの少し身じろぎした。
真横から歯ブラシを受け取る。柄を持つ手が、一瞬重なった。リシェルの指が、ぴくりと跳ねる。指の先は、少し冷たかった。
頬を指でそっと引いて、奥歯の裏を覗き込む。
「毛先は、斜めに。歯と歯茎の間に、少しだけ入れる。……そう。小さく動かして」
リシェルは、歯ブラシが入っているから喋れない。頷くこともできない。目だけが、俺の手元を追っている。
奥歯の裏。反対側。歯茎の際。手首の角度も、力の抜き方も、三年間、毎日続けた動きだった。指が覚えている。でも、祖母の時は、こんなに心臓は鳴らなかった。
ふと、気づいた。
息を、止めていない。
この距離で、リシェルの口の中を覗き込んでいるのに。届くのは、ひんやりした薬草の匂いだけだった。息を止めれば苦しい、吸えば濃い。この森に来た日の、あの二択が、どこにもない。
近いのは、俺のほうだった。リシェルは目を逸らして、俺の肩や手元ばかりを、忙しく見ている。灯りの下で、耳の先がうっすら赤い。
「……はい。終わり」
歯ブラシを抜く。リシェルは水差しで口をすすぎ、何度か水を吐いた。それから、俺を見た。目が、少し潤んでいる。
「……明」
声が、掠れていた。
「前は」
一拍。
「臭かった?」
外で、夜の虫が鳴いていた。リシェルは、目を逸らさなかった。水差しの取っ手を握る指に、力が入っている。
言葉が、出てこなかった。でも、嘘はつけない。ここで嘘をついたら、この森に来てから逃げ続けてきた自分に、戻ってしまう。
「……うん」
喉の奥から、ようやく出た。
「臭かった」
リシェルの目が、見開かれた。肩が、わずかに強張る。唇が、何か言いかけて、閉じた。
しまった。腹の底から、後悔が上がってくる。言い方なら、もっと柔らかいものが、いくらでもあった。それでも、取り消さなかった。取り消したくなかった。
長い沈黙のあと、リシェルの口元が、ふっと緩んだ。
「……正直すぎ!」
息が漏れて、笑った。さっきまでの強張りが、溶けていく。
笑い声が収まるのを待って、俺は言った。
「もう、隠さないって決めたから」
「……うん。それがいい」
笑い合った。顔の熱は、まだ残っていた。
リシェルは、笑いながら水差しを置いた。底が棚に当たって、小さな音がした。
歯ブラシを布に包み直し、胸の前で抱える。布の下に、月と花を彫った、もう一本の小枝が見えた。リシェルの親指が、柄の花を、そっとなぞっている。
顔を上げて、俺を見た。
「……明日」
低い声だった。俺は、黙って頷いた。
「私……明日、頑張る」




