第28話「私が変わる」
ファルネさんは、古文書の続きを読み直すと言って、板を抱えて先に戻っていた。
残った俺たちが、おばあちゃんの家の作業台を片付けていた時だった。戸口に、影が差した。
厚手の衣。後ろで結んだ銀の髪。セグレイスさんだった。
「……ここにおったか」
広場で会った時と同じ、鋭い視線。ただ、衣の裾に土がついている。朝から、森を歩き回っていたのだろう。
「世界樹の実に、触れた者がいる。産毛が、採られておった」
おばあちゃんの手が、布巾の上で止まった。
セグレイスさんの目が、作業台の上を順に通る。干し葉。石臼。小皿に残った練り粉。それから、リシェルの懐。
「懐のものを、出せ」
リシェルは、一度だけ息を吸った。布を解き、歯ブラシを胸の前に掲げる。産毛の束が、窓からの光を受けて白く立った。
「歯ブラシです。口を清めるための道具です。……産毛を採ったのは、私です」
「お前一人でか」
「登ったのは、私です」
俺は口を開きかけた。リシェルが、横目で小さく首を振った。俺は、口を閉じた。
「神域を侵した。それを承知で、か」
「はい」
「神事に人間の道具は持ち込むなと、触れを出したはずだ。小僧の入れ知恵か」
「材料は、全部この森のものです」
リシェルの声は、揺れていなかった。
「明が教えてくれたのは、口を清めるという考え方だけ。使うと決めたのは、私です」
リシェルが話すたびに、練り粉のひんやりした匂いが届く。森の発酵した甘さは、前より、ずっと薄い。
「それで、何が変わる」
低い声だった。セグレイスさんは、歯ブラシから目を離さない。
「私が変わる」
セグレイスさんの頬の線が、わずかに強張った。奥歯を噛み締めたのが、顎の動きで分かった。
「変わって、どうなる」
リシェルは、歯ブラシを握り直した。
「私、歌うことが好きです。精霊が集まってくれると、嬉しい。でも、歌うたびに、口の中が濁っているような気がしていました。奥歯の裏まで、何かが残っているような……。仕方のないことだと、思っていました」
顔を上げる。
「でも、変えられることがあるなら、変えたい。……ちゃんと生きるために」
誰も何も言わなかった。
おばあちゃんが、布巾を置いた。
「セグレイス」
静かな声だった。
「あんたも昔は、あの子みたいに、森中に歌が響くほど歌ってたじゃないか」
セグレイスさんの肩が、小さく動いた。
「……昔の話だ」
「そうだね。昔の話さ」
おばあちゃんは、作業台の端に手を置いた。
「でも、歌が楽になるって、どういうことか。あんたも、分かってるはずだよ。……忘れただけだろ、あんたは」
長い沈黙だった。
風が戸口から入って、干し葉を小さく揺らした。
セグレイスさんの視線が、歯ブラシに落ちる。次に、リシェルへ。それから、おばあちゃんへ。
やがて、背を向けた。
「……神事に、それを持ち込むな。産毛の件は、神事のあとで問う」
戸口へ向かう途中、一度だけ足を止めた。何か言いかけたようにも見えたが、結局、振り返らなかった。
足音が、遠ざかっていく。
家の中に、静けさが戻った。
ミオルが、おばあちゃんの後ろから、そっと顔を出した。
「……あの人、怖いの」
しばらく、戸口のほうを見ていた。それから、小さな拳を握った。
「でも、ミオ、負けないの! ミオは、ちゃんと歯を磨くの!」
おばあちゃんが、声を上げて笑った。
「そうだねぇ。ミオルは、えらいねぇ」
リシェルが、小さく息を吐いた。
「……怖かった」
「うん」
「でも、言えた」
歯ブラシを胸に抱いた手は、もう震えていなかった。
俺は、頷いた。
神事は、明日だった。




