第27話「禁令と、ミオはかわいいの」
戸口に立っていたのは、杖をついた老人だった。
肩で息をしている。片腕に、黒ずんだ木の板を二枚抱えていた。
「……ファルネさん」
息が抜けた。足音の重さから、勝手にセグレイスさんを思い描いていた。体が遅れて緩む。
「驚かせたか。すまんの」
ファルネさんは敷居をまたぎ、杖の先で床を一度突いた。
「リシェルの家には、おらなんだでな。ならばここじゃろうと、当たりをつけて来た。薬草のことで聞きたいことも……」
ファルネさんの言葉が途切れ、その視線が、リシェルの手の中に落ちた。
産毛の束が、ぴんと立った歯ブラシ。
世界樹の実の産毛だ。神域のものだ。背中が冷えた。
「……その毛は」
声が出なかった。リシェルが、歯ブラシを握る手を胸に引き寄せ、半歩前に出た。
「私が採りました。一人で行くつもりでした。明は、付き合ってくれただけです」
「違います。俺も行きました。止めなかったのは俺です」
ファルネさんは、俺たちを交互に見た。
「許しなく採れば、森を侵す行為。知らぬ者はおらん」
「……はい」
誰も口を開かなかった。棚の前で、おばあちゃんの手が、鍋を拭く途中で止まっている。
ファルネさんは、長いこと産毛を見ていた。それから、視線を外し、板を作業台に置いた。ごとり、と重い音がした。
「わしは近頃、目が悪うなってな。細かいものは、よう見えん」
リシェルが、小さく息を呑んだ。
おばあちゃんの手が、また動き出した。
俺は何も言えず、頭を下げた。ファルネさんは、返事をしなかった。
「あれから、古文書をもう一度ひっくり返してな」
節くれだった指が、刻まれた文字をなぞっていく。俺には読めない。
「『謳う前に喰む草』。『息を整える草』。……『神事に臨む者、これを口に含み、息を整えよ』。じゃが、どんな草かは書いておらん。誰もが知っておる草だったのじゃろう」
神事に臨む者。
その一節が、耳の奥に引っかかった。広場に響いた、セグレイスさんの声と重なる。
「喰む草、ねぇ」
おばあちゃんが、棚の籠から干した葉を三種、つまみ出した。作業台に並べる。
「年寄りが歌う前に噛んでた草は、何種類かあるよ。これは渋い。これは苦い。で、これが……」
灰緑色で、縁が縮れた一枚。
「ミオルが喉を痛めた時に、噛ませた草さ。すうっとして、声が通る。歌う前に噛むのは、昔っからこれだったよ」
受け取ると、乾いているのに、鼻先にひんやりした匂いが立った。森の発酵した甘さとは違う、澄んだ匂いだった。
ファルネさんが、頷いた。
「息を整える。……合うのう」
籠の奥に、もう一種類、細長い葉があるのに気づいた。
「その奥の草、前に聞いた、傷や虫刺しに使うやつですよね。それも、粉にして混ぜられませんか」
「ああ、これかい」
おばあちゃんが、指でつまんで鼻に近づけた。
「膿まないようにする草さ。悪いものを抑える草だね。口に入れても、まあ毒にはならんよ」
「悪いものを抑える草と、息を整える草、か」
ファルネさんが、顎に手をやった。
「古文書にあるのは、後の方だけじゃ。先の方は、書くまでもなかったのかもしれん」
「あと、塩は磨く役です」
そこまで言って、胸の底が冷えた。
神事に臨む者が、口に含む草。
「……でも」
口が先に動いた。
「この草、神事で使うんですよね。禁令が、あります。神事に人間の道具は持ち込むなって」
リシェルが、手元の歯ブラシに目を落とした。
「歯ブラシは、形が俺の世界のままです。そのうえ、歯磨き粉まで神事に持ち込んだら、人間の知恵そのものだって言われても、反論できません」
「……もし、そう言われたら」
リシェルは、ゆっくりと言った。
「私の歌が、誰にも信じてもらえなくなる」
誰も何も言わなかった。作業台の上で、干し葉が小さく鳴った。
「あんたたちねぇ」
おばあちゃんが、布巾を置いた。
「息を整える草は、ファルネの古文書にある草だろう。傷の草も、塩も、この森で昔から使ってきたもんだよ」
「それは」
「材料はぜ〜んぶ、エルフの森のもん。枝も、毛も、樹液も、これから使う草もだ。一体これの、どこが人間の道具なんだい」
返す言葉が、見つからなかった。
「それにねぇ」
おばあちゃんは、戸口の脇でこっそり鍋を覗いていたミオルの頭を、ぽんと撫でた。
「あたしゃ、ミオルが可愛くてねぇ。この子の笑顔が見られるなら、セグレイスの若造の出した禁令なんぞ、怖くもなんともないわ」
若造。五百五十歳が、若造。
ファルネさんの肩が、ほんの少し揺れた。笑いを噛んだらしい。
「ミオはね、かわいいの!」
ミオルが胸を張った。
「そうだよ。世界一さ」
「せかいいち!」
張り詰めていた空気が、ふっと溶けた。リシェルが、口元を押さえて小さく笑っている。
笑いをおさめたリシェルは、俺を見た。俺が頷くと、歯ブラシを握ったまま、おばあちゃんに小さく頭を下げた。
「あいよ」
おばあちゃんは、それだけ言った。
「わしは、ただ古文書の草を確かめに来ただけじゃ」
ファルネさんが、板を撫でながら言った。
「その草を、そこの婆さんと確かめる。それだけのことよ。誰かが何を作ろうと、わしの知るところではない」
それから、手分けして作業が始まった。
リシェルは、歯ブラシを清潔な布に包んで懐に収めた。
おばあちゃんが、二種類の干し葉を石臼で挽いていく。ごりごり、と低い音。リシェルが、粉を少しずつ小皿に集めた。
「ミオルは、これ」
おばあちゃんが、固く焼いた塩の塊と、平たい石を渡した。
「石で叩いて、粉にするんだよ」
「まかせて!」
ミオルは床にぺたりと座り込み、石を振り上げた。ごつん、ごつん。欠片が飛ぶたびに「わっ」と声を上げる。
「ミオル。叩いたら、手の甲に載せて、指で擦ってみて。ざらざらが残らなくなったら、できあがりだ」
「ざらざら、なくなるまで?」
「そう。歯を削らないように」
「わかった!」
ミオルは何度も叩いては、手の甲で擦った。何度目かに、真剣な顔で指を止めた。
「……ざらざら、しないの」
俺も指で擦ってみた。粒が溶けるように消えている。
「上手だ。これなら大丈夫」
「やった!」
叩き終えた粉を指につけ、ぺろりと舐めた。
「しょっぱいの!」
「当たり前だよ」
挽いた二種類の葉に、ミオルの塩を合わせる。比率は誰にも分からない。おばあちゃんの勘で、葉を多めに、塩を少し。水を数滴たらして、指で練ると、灰緑色の練り粉になった。
「ミオル、味見するかい」
「する!」
ミオルは、ひとつまみを口に入れた。次の瞬間、顔がくしゃっとなった。
「にがいの〜!」
「葉が多すぎたかね」
おばあちゃんが、苦笑した。
「塩を増やして、葉を減らそう。苦みが出るのは、悪いものを抑える草のほうだね」
足したり、引いたり。おばあちゃんは自分の指先で何度かひとつまみを確かめては、首を傾げ、また足した。
やがて、その手が止まった。
「……こんなもんかね」
ひとつまみ、ファルネさんの掌に載せた。
「わしが?」
「古文書を読んだ本人が、確かめんでどうするね」
ファルネさんは少し黙ってから、掌の練り粉を口に含んだ。舌の上でゆっくりと転がす。目を閉じる。
リシェルは、懐の上から、そっと歯ブラシに触れていた。
しばらく、誰も喋らなかった。
口をすすぎ、ファルネさんが目を開けた。
「……ふむ」
その一言で、俺は気づいた。
ふむ。語尾の丸い濁りが、削げている。
「おお……声が、通る!」
自分の声に、自分で驚いたように、ファルネさんは喉に触れた。
祖母がそうだった、と思った。口の中が変われば、声も変わる。
リシェルが、俺の袖をそっと引いた。何も言わなかった。ただ、目が少し光っていた。
ファルネさんは、杖を床に置き、もう一度、ゆっくりと声を出した。
「……ああ。わしの声は、こんな声だったか」




