第26話「あまくない」
おばあちゃんの家を後にして数歩。振り返ると、ミオルが鍋の縁に残った欠片をつまんでいた。
指先についた琥珀色をじっと見ている。それから、ためらいもなく、ぱくりと口に入れた。
「あっ、こら!」
駆け戻ろうとした俺より先に、ミオルの顔がくしゃっと歪んだ。
「あまくないの〜!」
口を開けたまま、両手をばたばたさせている。
「だから言っただろう」
戸口から、おばあちゃんの呆れた声が飛んできた。
「匂いは甘くても、味は何ともないって」
「だってぇ……ぜったい、あまいと思ったの……」
ミオルは涙目で俺を見上げた。リシェルが慌てて水を汲みに走っていく。
鼻をすんすん鳴らして、唇をへの字に曲げている。その顔を見ていたら、手が勝手に上着のポケットに伸びていた。
指先に、小さな包みが二つ触れる。
元の世界から持ってきた、ありふれた飴だった。この森で目を覚ました日から、ずっとポケットに入っていた。
二つしかない。この世界で、これと同じものは手に入らない。
包みを握った指が止まった。
「明のお兄ちゃん?」
ミオルが不思議そうに首を傾げている。
……たった一粒だ。
自分に言い聞かせて、一つだけ取り出した。包みを開き、掌に乗せる。
「口、開けて」
「なぁに?」
「口直し」
ころん、と入れてやった。
ミオルの目がまん丸になった。
「……あま〜い!」
頬がふくらむ。
「あまいの! すっごくあまいの! おばあちゃん、あまいよ!」
「そうかい、よかったねぇ」
「もう一個!」
「ミオル。一個で十分だよ」
おばあちゃんに釘を刺されて、ミオルはしぶしぶ頷いた。それでも頬の中で飴を転がしては、何度も「あまい」と呟いている。
そこへ、リシェルが水を張った器を抱えて戻ってきた。
「ミオル、お水……あれ?」
「あまいの! リシェルお姉ちゃん、これ、あまいの!」
「……舐めたんじゃなくて、もらったの?」
「うん!」
リシェルは器を持ったまま、きょとんとした顔で俺を見た。俺は黙って肩をすくめた。
笑って見ていたのに、「甘い」という言葉だけが、なぜか胸のどこかに引っかかった。
家に戻っても、引っかかりは取れなかった。
夜。寝床に横になって天井を見つめる。隣の部屋から、リシェルの寝息がかすかに聞こえた。
ポケットから残った一つを取り出し、指で摘んだ。月明かりで、包みが小さく光る。
甘い。
縁側。夏の日差し。皿の上に、饅頭が二つ。
——ほら、明。
祖母が笑っていた。何か言っている。口元が動くのは見えるのに、肝心の言葉だけが聞こえない。
大事なことを言われた気がするのに。
……元の世界へは、もう。
いや、と俺は首を振った。
今、考えることじゃない。
明日の朝には、樹液が固まっているはずだ。リシェルが最初に使う。ミオルはまた、何か舐めるだろう。そっちを考えるほうが、ずっといい。
飴を握りしめた。かさ、と包みが鳴る。
捨てたわけじゃない。ただ、まだ取っておく。それだけだ。
翌朝、おばあちゃんの家を訪ねると、棚の上で歯ブラシが待っていた。
「ほら、固まってるよ」
おばあちゃんが下ろして差し出してくれた。受け取ると、産毛の束がぴんと立っている。指で引っ張ってみた。抜けない。もう一度、少し強めに引いても、びくともしなかった。
「……できた」
声が掠れた。
柄も毛も接着剤も、全部この森のものだ。それなのに、手の中のそれは、確かに俺の知っている歯ブラシの形をしていた。
その形が、喉の奥に小さく引っかかった。セグレイスさんの禁令。こんなものを、あの人の目はどう見るだろう。
けれど、今は考えないことにした。
「リシェル」
差し出すと、リシェルは両手で受け取った。
「……私が、最初でいいの?」
「リシェルのために、作ったんだ」
彼女は一度、深く息を吸った。それから歯ブラシを口に含む。
奥歯の裏。歯茎の際。小さな毛先が、届かなかった場所をゆっくりとなぞっていく。
やがて、リシェルの肩から力が抜けた。
「……届いた」
ゆっくりと目を開く。
「届いたよ、明。ずっと届かなかったところに」
声が少しだけ震えていた。
「やったね、リシェルお姉ちゃん!」
ミオルがぴょんぴょんと跳ねる。
「ミオも! ミオもやる!」
「歯ブラシはリシェルのだよ。ミオルには、自分の朝の小枝があるだろう」
「えー! ずるい! ずるい! ずるいー!」
ミオルが地団駄を踏む。おばあちゃんがその頭にぽんと手を置いた。
「リシェルは、自分で材料を探して、頑張って取ってきたんだよ。ミオルも自分の歯ブラシが欲しいんなら、今度、ミオルに合った材料を一緒に探そうかね」
取ってきた。
思わずリシェルを見た。彼女も同じことを思ったらしい。目が合って、すぐにそっと伏せられた。
おばあちゃんは何も言わず、ミオルの頭を撫でている。
「……ほんと?」
「ほんとさ」
「やくそくなの!」
ミオルの機嫌は、あっさり直った。
おばあちゃんが、声を上げて笑った。
リシェルも笑っていた。涙が一粒だけ、頬を伝っている。俺はそれを見ないふりをした。
俺も、つられて笑っていた。
ミオルだけが、何がおかしいのか分からないまま、俺たちの顔を順番にきょろきょろと見ていた。
——その時だった。
背後の戸口の外で、乾いた枝を踏む音がした。
ぱき、と。
笑い声が止まった。
足音が、こちらへ近づいてくる。ゆっくりとした足取りだった。
足音は戸口の前でぴたりと止まった。差し込んでいた光が、何かに遮られて陰る。
俺は、ゆっくりと振り返った。




