第24話「産毛」
朝、リシェルは薬草畑の隅で、朝の小枝を握っていた。
奥歯に当て、しばらく動かす。やがて小枝を置き、口をすすぐ。それから、掌を前に差し出し、精霊術を試みた。淡い緑の光が生まれたが、すぐに薄れて消えた。暴れはしない。でも、安定もしない。
「……やっぱり」
「リシェル」
彼女は振り返った。少し困った顔をしている。
「明。……聞いてもいい? 朝の小枝で、口は軽くなったの。前より、ずっと。……でも、奥歯の裏とか、歯茎の際とか、どうしても届かないところがあるの。そこが濁ってる気がする。……私、自分の口の中なのに、ちゃんと清められてない」
彼女は、自分の掌を見つめた。
「明は、前はどんな道具を使って磨いていたの?」
「……歯ブラシっていうんだ。柄の先に、細かい毛がびっしり生えてる。それで、歯と歯の間とか、歯茎の際まで磨く。あと、歯磨き粉。薬剤を練ったやつで、口の中を清める」
リシェルは、しばらく黙っていた。風が、薬草の葉を揺らす。やがて顔を上げた。伏せていた目が、まっすぐ俺を捉える。
「その道具、作れるかな」
「……難しいと思う。毛になるものが、まず見つからない」
「毛になるもの……」
彼女は、森の方を見た。世界樹の方角。
「……ある。世界樹の実に、産毛が生えてるの。ふわふわした、細かい毛。昔、精霊の導きで、一度だけ登ったことがある」
「世界樹の実? それって——」
「神域」
彼女は、頷いた。
「産毛の採取には、長老たちの許しが要る。……でも、今、セグレイス様に願い出ても、許されない。禁令が出てるから。……それに、神事の準備で、集落はばたばたしてる。私のことで、長老たちの手を煩わせたくない」
「まさか」
「私、一人で行く。夜なら、見つからない。産毛を採るだけなら、すぐ終わる」
「駄目だ」
声が、勝手に出ていた。
「一人で行かせるわけない。……一緒に、確かめようって言ったはずだ」
リシェルは、息を呑んだ。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……明」
「なに」
「明は、なんでそこまで言うの?」
「……一緒に背負いたいからだ」
リシェルは、黙った。しばらくして、小さく息をついた。
「……明も、来る?」
「行く」
即答だった。リシェルは、少しだけ目を丸くして、それから、小さく笑った。
「……うん。じゃあ、今夜。月が高くなったら」
その日の夜、俺たちは家を出た。
集落の道を歩いていると、後ろから眠そうな声がした。
「明のお兄ちゃん、どこ行くの?」
ミオルだった。手には朝の小枝を持っている。寝る前に、歯を磨きに小川まで行っていたのだろう。少し離れたところに、ミオルのおばあちゃんの姿も見えた。
「ちょっと、そこまで」
「ミオも行く!」
声が強くなりそうなのを堪えて、しゃがんで目線を合わせた。
「もう遅いから、連れて行けないんだ。ごめんね」
ミオルはしばらく俺を見ていたが、小さく頷いて言った。
「わかった。でも待ってるからね! ちゃんと帰ってきてね!」
「……ああ。約束する」
小さな背中が闇に消えると、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「……行こう」
「うん」
月は、少し欠けていた。リシェルが先を歩く。俺は後ろをついていく。森は、昼とは違う匂いがした。湿った土。閉じた花。遠くで、夜行性の獣が鳴いている。
「明、足元」
リシェルが振り返る。俺は、木の根につまずきかけて、体勢を立て直した。
「私が先を行くから、明は、私の歩いたところを踏んで」
銀色の髪が、月明かりの下で揺れている。その背中を、俺は必死で追った。リシェルの足取りに、迷いはなかった。でも、時々、立ち止まる。耳を澄ます。そのたびに、俺も立ち止まり、息を殺した。
どれくらい歩いただろう。木々が、急に開けた。
世界樹が、あった。
——匂いが、違った。
森の匂いとも、薬草の匂いとも違う。もっと、古い。もっと、深い。世界樹そのものが、呼吸しているみたいだった。体の奥が、ざわつく。……怖い、と思った。
幹は、見上げても先が見えない。枝は、夜空を覆うように広がっている。
——そして、あった。
枯れた大枝が。
太い枝の一本が、葉を落としている。色が、抜けている。他の枝はまだ緑を保っているのに、その一本だけが、乾いた骨みたいに白っぽく見えた。ファルネさんの言葉が、頭の中で蘇る。大枝が、一本、枯れた。
あれが、そうなのか。俺には、どうすることもできない。
枯れた大枝のすぐ下で、まだ小さな実が、ぼうっと光っていた。
「……明」
リシェルが、足を止めた。声が、少し硬い。
「あそこ」
彼女が指差したのは、幹の中ほど。太い枝の付け根に、小さな実がいくつか生っていた。表面に、ふわふわした産毛が生えている。月明かりを受けて、銀色に透けていた。
「あれを、採る」
「登れるのか?」
「うん。一度、登ったから」
リシェルは、幹に手をかけた。そして、俺を振り返った。
「明は、下で見てて。何かあったら、教えて」
「……分かった」
リシェルは、登り始めた。エルフの身体は、軽い。細い枝に足をかけ、幹の凹凸を掴み、どんどん上へ行く。銀色の髪が、月明かりの下で揺れている。俺は、下で見上げていた。リシェルの指が、実の産毛に触れる。一束、二束。布に包んで、腰の袋に入れる。慎重な手つきだった。
その時だった。
——気配が、した。
俺は、息を止めた。木々の向こう。暗がりの奥。何かが、動いた。足音ではない。もっと静かな、気配。誰かが、こちらを見ている。見られている、という感覚だけが、肌に刺さる。首の後ろが冷たくなる。手のひらに、汗がにじむ。
動けなかった。リシェルも、気づいたようだった。幹に張り付いたまま、身を潜めている。
気配は、しばらくそこにいた。動かなかった。やがて——ゆっくりと、離れていった。足音もなく。気配だけが、闇に溶けていく。
俺は、息を吐いた。握っていた拳が、汗で濡れていた。膝が、震えている。
その膝に手をやり、ふと足元を見ると、落ち葉の間に指くらいの太さの枝が一本落ちていた。表面はつるつるしていて、見た目よりずっと重い。木なのに、石みたいだ。折れ口は、自然に折れたとは思えないほど滑らかだった。最初からこの形になるように育ったみたいに、バランスが良い。
こういう出来の良さに昔から目がない俺は、柄に使えるかもしれないと思った。枝を拾い上げた。
「明」
上から、声がした。リシェルが、降りてきていた。袋を、胸に抱えている。
「採れた」
「……よかった」
「何か、あった?」
リシェルが、俺の顔を見た。俺は、少し迷ってから、答えた。
「……誰か、いた。見てた。でも、行った」
「……そう」
リシェルは、それ以上聞かなかった。
拾った枝を産毛の袋と一緒に布にくるみ、集落への道を戻る。一度だけ振り返ると、世界樹は、そこにあった。ただ、立っている。その梢で、葉が、さわ、と鳴った気がした。
「……明」
リシェルが、足を止めた。
「今、世界樹が……私たちを、見送ってくれたみたいな気がした」
「……見送った?」
「うん。……気のせいかもしれない。でも」
リシェルは、振り返らなかった。俺も、振り返らなかった。
「……行こう」
俺は、リシェルの袖を引いた。彼女は、小さく頷いた。夜の森を、二人で歩いた。袋の中には、産毛と、枝。その重さが、妙に、心強かった。
その後ろで、世界樹の葉が、もう一度だけ、ざわめいた。




