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エルフの森の歯磨き事情  作者: 藤紫


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第23話「だったら、逃げないで」

「……私、昔から精霊が近かったの。そう、ちょうどミオルぐらいのとき。森を歩くと、光が溢れてきて」


 声は静かだった。


「精霊との親和性が、一番高いって。……だから、将来は巫女になるんだよって。何かあったら、あなたが精霊にお願いするのよって。ずっとそう言われてきた。自分で決めたこと、なかった」


 窓の外で、風が木々を揺らした。乾いた音が、部屋の中まで届く。


 リシェルは、手の中の小枝をもう一度見つめた。それから、俺を見た。その目には、さっきとは違う光が宿っていた。


「ずっと、重かったの。周りに言われて、決められて……今朝、セグレイス様が禁令を出したときも思った。これから先も、誰かに決められて生きるのかなって。……嫌だなって」


 話している間、小刻みに揺れていた小枝が止まった。


「明」

「ん?」

「私、決めた」


 リシェルは小枝を胸の前で握り直した。


「神事の巫女。セグレイス様に選ばれたから、やるんじゃない。自分で選ぶ。私が、世界樹に届けるって……自分の意志で」


 俺は何も言えなかった。ただ、頷いた。


 リシェルは少しだけ笑った。前の笑顔に、少しだけ近づいた笑顔だった。


「そういえば、明……」

「なに?」

「私……ちょっと傷ついた」


 笑顔のまま、リシェルは言った。


「だって、明は私の息が気になってたってことでしょ。そりゃ傷つくよ……二百年生きてきて、そんなこと思われたことなかったから」

「ごめん」

「うん……でも、言ってくれてよかった」

「えっ」

「だって、明、ずっと言えなかったんでしょ?」


 リシェルは、小枝の花の装飾を数えるように、指先でそっと撫でた。


「明は、優しいね」

「……優しくない」


 俺は首を振った。


「優しかったら、顔を背けたりしなかった。優しかったら、もっと早く言えてた。……俺は、ただ、怖かっただけだ。ごめん」


 リシェルは短く息を吐いた。その息に、まだ、あの匂いが混じっていた。でも、前より薄い。


「……私、自分の口が嫌いになりそう」


 俺は何も言えなかった。嫌いにならないで。そう言いたかった。けれど、俺がそれを言っていいのか、分からなかった。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 やがて、リシェルが小枝を見つめた。


「……うん」


 小さく頷く。


「……嫌いになるのは、やめる」

「……え?」

「だって、嫌いになったら、歌えなくなる。……私、歌うの、好きだもん」


 リシェルは顔を上げた。


「嫌いになるんじゃなくて、好きになるようにすればいい。明が好きになってくれるように、行動すればいい」


 その笑顔を見て、俺は思い出した。


「……ファルネさんが、古文書に『清き息』って書いてあったって言ってた」

「『清き息』?」

「うん。間違ってたんだって。『美しき声』でも『澄んだ歌声』でもなくて、『清き息』だったって。神事の前には『口を清めよ』って書いてあったらしい」

「朝の小枝で、歯を清めるってこと?」

「……分からない」


 俺はリシェルから目を逸らした。古文書を見たわけじゃない。ファルネさんから聞いただけだ。それが本当に歯を清めることを意味するのか、俺には確かめようがなかった。それに、セグレイスさんの禁令もある。


「でも、明が好きになってくれるってことは確かだよね」

「……っ」


 真っ直ぐな笑顔を向けられて、言葉が出てこなかった。


 リシェルは俺の顔を見ていたが、やがて手の中の小枝に目を落とした。


「……私、試してみたい」

「え?」

「口を清めるっていうの。明が考えたこと、合ってるかどうかは分からないんでしょ?」

「それは、そうだけど……」


 リシェルの笑顔が、少しずつ消えていった。


「……もし」


 声が、小さくなる。


「もし、これで、歌えなくなったら」

「え」

「ずっと、歌うのが好きだった。……精霊が近いのも、巫女になるのも、全部重かった。でも、歌うことだけは、誰に決められたんじゃなくて、好きだった。……それだけは、譲れなかった」


 小枝を握る手に、力がこもった。


「もし、口を清めることで、何か変わって……前みたいに歌えなくなったら」


 言葉に、まだ続きがある気がした。

 俺は、何も言えなかった。でも、言わなきゃいけない気がした。


「……一緒に、確かめよう」


 リシェルが、顔を上げた。


「俺も、分からないことを、リシェルだけに試させるのは、違う気がする。……俺も、見てる。何かおかしかったら、すぐ言う。だから」


 拳を、握った。


「一人で、怖がらなくていい」


 リシェルは、しばらく俺を見ていた。それから、小さく笑った。さっきまでとは、違う笑い方だった。


「……明も、変わったね」

「え?」

「ずっと、顔、背けてたのに。今は、ちゃんと、見てくれてる」


 小枝を、両手で包み直す。


「でも、禁令が……」


 言いかけて、口を閉じた。

 リシェルを止めたいのか。それとも、何かあったときに責任を負うのが怖いだけなのか。自分でも、うまく答えられなかった。

 リシェルは小枝を見つめ、それから俺に目を戻した。


「明」

「……なに?」

「だったら、逃げないで」


 俺は息を呑んだ。


「私、自分で決めたの。試してみたいって。……だから、明も、ちゃんと向き合って」


 言い返せなかった。

 好きだと言った。それなのに、まだ怖い。

 リシェルの手の中で、小枝が静かに揺れていた。


 俺は、もう目を逸らせなかった。

 

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