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魔女のインクと、声なき手紙②

 どれくらい膝を抱えていただろう。

 窓の外はすっかり藍色の夜に沈み、遠くで秋の虫の声がリンリンと響いていた。


 ガララ……。


 物置の引き戸が静かに開き、ふわっとサンダルウッドとハーブの香りが流れ込んできた。

 顔を上げると、部屋の入り口に類おばさんが立っていた。今夜は墨黒のロングガウンに、手首には銀のバングル。手には小さな木製のトレイを持っていて、そこには湯気を立てるマグカップがふたつ載っていた。


「……お疲れさん」


 おばさんは足音もなく部屋に入ると、座布団の上にトレイを置き、縮こまる私を覗き込んだ。


「姉貴から聞いたよ。『志穂が泣いて部屋に閉じこもっちゃった』って、下でオロオロしてた。……何、声が出なくなっちゃったんだって?」


 その穏やかな、でもすべてを見透かすような声に、私はまた鼻の奥がつんとして、膝に顔を埋めたまま小さく頷いた。


「……うん。先生が優しく聞いてくれたのに、何も言えなかった。お母さんは『ちゃんと言えばわかってくれる』って言うけど……言おうとすると、喉がキュッて締まって、涙ばっかり出てきて……私、ダメだなあ、って……」


 情けなくて消えてしまいたかった。

 けれど、おばさんはため息をつくことも、呆れたりすることもなかった。どさりと絨毯の上に腰を下ろすと、マグカップを私の手元へ滑らせてきた。


「バッカじゃないの。ダメなわけないでしょ」


「え……」


「姉貴みたいにさ、思ったことをその場でハキハキ言える人間には、この恐怖は一生かかっても理解できないよ」


 おばさんはマグカップのチャイを一口すすり、眼鏡の奥の目を細めた。


「私もね、小学生のとき、まったく同じだったんだよ」


「……おばさんも?」

 思わず顔を上げると、おばさんはどこか懐かしそうに、自嘲気味に口元を歪めた。


「そうだよ。私は、浮きまくりの変わり者だからさ。掃除のやり方が違うだの、読んでる本が気味悪いだの、よくからかわれたよ。で、先生に『大丈夫?』って聞かれるんだけどさ、もうダメ。喉の奥に小石が詰まったみたいにカチコチになって、一言も喋れなくて、涙だけボロボロこぼしてさ。『泣けば済むと思うな』なんて言われて、余計に自分が嫌いになったもんだったよ」


 こんなに堂々としていて、誰の目も気にしない魔女のようなおばさんが、私と同じように泣いていた。

 その事実だけで、胸の奥で固まっていた冷たい氷が、じわりと溶けていくのを感じた。


「声が出ないのはね、あんたが臆病だからでも、ダメだからでもないよ。その場ですごく混乱して、どう言っていいか分からなくなっちゃったんでしょ? 相手のことを悪く言わないようにとか、言葉を選びすぎて頭の中でぐるぐるたくさん考えてた証拠。優しくて慎重なだけなんだから、恥じることなんて何もないの」


「……えっ、な、なんでわかるの?!」


 思わず顔を上げて目を丸くすると、おばさんはふっと口元を緩めて肩をすくめた。


「だから、私もまったく同じだったって言ったじゃん。頭の中で完璧な言い回しを探してるうちに、喉がカチコチに凍りついちゃうんだよね」


「……でも、言えないと、伝わらないよ……」


「口から音を出さなくたって、伝える方法はいくらでもあるよ」

 おばさんはニヤリと笑うと、立ち上がって隣の自分の部屋へ戻っていった。


 数秒後、戻ってきたおばさんの手には、アンティークゴールドの鈍い光を放つ真鍮の細身なボールペンと、少し厚手で手触りのいいクリーム色の便箋が握られていた。


「――声が出ないならさ、手紙を書けばいいんだよ」


「手紙……?」


「そう。文字ならさ、誰にも遮られないし、涙で声が震えることもない。自分のペースで、頭の中にある言葉をひとつずつ並べていけるでしょ。私もね、どうしても口で言えない本音や悔しい気持ちは、全部手紙にして先生や友達の机に突っ込んでたよ」


 おばさんは文机の上に便箋を広げ、カチリとペンの頭をノックして、私の手のひらに握らせてくれた。

 ずっしりとした金属の重みがあるのに、持つとしっくりと指に吸い付く。


「私の仕事用のお気に入りのペン。力を入れなくてもスラスラ書けるよ。これで書けば、本音を書けるかもよ。……先生に、今のあんたの言葉をそのまま渡しておいで。傷ついたこと、その場で言えなかった理由、全部書いていいんだよ」


 おばさんはそう言うと、私の頭をぽんと軽く叩き、「チャイ、冷めないうちに飲みな」と言い残して部屋を出ていった。



 シーンと静まり返った夜の物置。

 ステンドグラスのランプをつけ、私は机に向かった。真鍮のペンを握り、便箋にペン先を滑らせると、驚くほどなめらかに、夜空のように深い青黒いインクが紙に吸い込まれていく。


 深呼吸をひとつして、私は一文字ずつ言葉を紡ぎ始めた。


『山崎先生へ。

 せっかく心配して聞いてくれたのに、何も言えなくてごめんなさい。

 本当は、掃除の時間に雑巾の絞り方やノートの取り方をみんなに笑われて、とても悲しかったです。

 悪気がないのは分かっているけれど、「そんなことも知らんの?」と言われると、自分がこのクラスにいてはいけないような気持ちになります。

 先生の前で言おうとしたのですが、喉がカチカチになって声が出なくなってしまいました。

 口ではうまく言えないので、手紙に書きました。読んでくださって、ありがとうございます。

 志穂』


 書き終えた手紙を読み返したとき、不思議なほど胸がすっきりしていた。

 あんなに喉に詰まっていた苦しい感情が、深い青黒い文字になって便箋の上に整然と並んでいる。言葉が、私の心から外の世界へと、ちゃんと形になって飛び立とうとしていた。



 月曜日の朝。

 始業のチャイムが鳴る前の静かな職員室へ行き、私は山崎先生の机の上に、小さく折った手紙をそっと置いた。


 一時間目が終わった後の休み時間。先生に呼び出されるかと思ったけれど、先生は私を呼び出さなかった。

 その代わり、帰りの会の前の「学級の時間」に、先生は教壇に立って、いつもより少し真剣な顔でクラス全体を見渡した。


「みんな、ちょっと先生の話を聞いてください」


 教室が静まり返る。


「最近ね、自分とやり方や考え方が違う友達に対して、『そんなことも知らないの?』とか『変わってる』って、からかうような場面を見かけます。言っている人は冗談のつもりでも、言われた人は自分の大切なものを否定されたように感じて、深く傷つくことがあります。この教室は、みんなが違っていていい場所です。違うことを笑うんじゃなくて、お互いのやり方を認め合えるクラスにしましょう」


 先生は誰の名前も出さなかった。私の方を見ることもなかった。

 けれど、掃除の時間に私をからかった男子や女子が、どこかバツの悪そうな顔をして俯いているのが見えた。


 放課後、帰りの支度をしていると、先生が私の机の横を通り過ぎる際、小さな折り紙の包みをすっと置いていった。

 開いてみると、先生のきれいな字でこう書かれていた。


『志穂さんへ。手紙をくれてありがとう。志穂さんの気持ちがよく分かりました。声が出ないときは、いつでも手紙を書いてね。先生はいつでも待っています』


 胸の奥が、ぽかぽかと温かい光で満たされていく。

 声にならなくても、伝わるんだ。

 文字にして差し出せば、想いはちゃんと誰かの心に届くんだ。



 その日の夜。

 一階の客間へ降りる前、私は二階の物置の机に向かい、おばさんから借りた真鍮のペンを握りしめていた。

 そして、手紙を書いた時に残っていた小さな便箋に、丁寧にもう一通の短い手紙を書いた。


『おばさんへ

 ペンを貸してくれてありがとう。

 ちゃんと先生に気持ちが伝わりました。

 いつも私の話を聞いてくれてありがとう。

 志穂』


 ペンを綺麗に拭いて机の上に置き、私は小さく折ったその紙切れを持って部屋を出た。

 隣の「魔女の部屋」の前。

 扉の隙間からは相変わらず、リズミカルなタイピング音と、かすかに重たい喉鳴らしの音が漏れている。

 私はしゃがみ込み、扉の下のわずかな隙間に、その手紙をすっと差し込んだ。


 一階の客間に降りると、すでに布団の中で小さな寝息を立てている双子と、疲れ切って眠っている母の姿があった。

 昼間の出来事が嘘のように穏やかな部屋で、私は自分の布団に潜り込んだ。


 胸の奥には、じんわりとした温かさがずっと残っていた。

 声にならない想いも、ちゃんと届く場所がある。

 頭上で響くかすかな音に守られるようにして、私は深く心地よい眠りへと落ちていった。

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