魔女のインクと、声なき手紙①
五年生の秋。田んぼの稲穂が黄金色に実り、通学路のあぜ道に赤とんぼが飛び交う季節になった。
祖母の家での生活にも、転校先の小学校の空気にも、随分と慣れてきたはずだった。けれど、都会からやってきた私と、生まれた時からずっとこの土地で育ってきた同級生たちの間には、ふとした瞬間に目に見えない「薄い膜」のような違和感が立ちはだかることがあった。
それは、暴力でも、あからさまな無視でもない。
もっと日常的で、本人たちには悪意すらなさそうな、けれど私の心をチクチクと針で刺すような「ちょっとしたからかい」だった。
「ねえ、志穂ちゃんってさ、掃除のときいつも雑巾の絞り方違くない?」
金曜日の放課後の掃除時間。手洗い場でバケツを囲んでいた時、同じ班の男子と女子数人が、クスクスと笑い声を立てた。
「え……?」
「ほら、縦に持って絞るやつ。普通、横にしてこうやってギュッて絞るじゃん。なんか志穂ちゃんって、何するにも気取ってるよねー」
「あとさ、ノートの取り方も細かすぎ! そんな定規使って線引くとか、真面目かよ」
「先生にいい顔したいだけじゃないの?」
「『そんなことも知らんの?』って言いたくなるよねー」
周囲からドッと小さな笑いが起きた。
彼らにとっては、ただの軽口だったのだと思う。放課後の手持ち無沙汰な時間、ちょっとした違いを指さして、みんなで盛り上がるための無邪気なネタ。
けれど、言われた私の胸の奥には、氷水のような冷たい塊がどすんと落ちてきた。
気取ってるつもりなんてない。先生にいい顔をしたいわけでもない。ただ、前の学校で教わった通りに、自分なりに丁寧にやっていただけなのに。
「……別に、そんなんじゃないよ」
小さな声で言い返そうとしたけれど、私の声は手洗い場の水の音にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。彼らはもう次の話題――テレビのバラエティ番組の話に移って、ゲラゲラと笑いながら教室へ戻っていった。
取り残された私は、冷え切った水に浸かった雑巾を握りしめたまま、その場から動けなくなってしまった。
「……志穂さん、ちょっといいかな」
帰りの会が終わった後、教室を出ようとした私を、担任の山崎先生が呼び止めた。
三十代半ばの、いつも穏やかで生徒想いの女性の先生だった。先生は私のぎこちない様子や、掃除の時間の雰囲気にどこかで気づいていたのかもしれなかった。
誰もいなくなった夕方の教室。西日が長く伸びる教卓の前で、先生は私の目線に合わせてしゃがみ込み、優しく微笑みかけてくれた。
「掃除のとき、何かあった? 嫌なこと言われたりしなかった? 大丈夫?」
その温かい言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、張り詰めていた何かがぷつりと切れそうになった。
言わなきゃ。
掃除の時間に言われたこと。気取ってるとか真面目すぎるとか言われて、すごく傷ついたこと。悪気がないのはわかるけれど、みんなで笑われるのがとても嫌だったこと。
口を開けて、息を吸い込んだ。
――けれど。
「…………っ」
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられたように固まって、声が出なかった。
先生の真っ直ぐで心配そうな視線を受け止めた途端、恐怖と恥ずかしさと情けなさが一気にこみ上げてきて、胸が詰まってしまったのだ。
何か一言でも発したら、その瞬間にポロポロと涙がこぼれて止まらなくなってしまう。泣いたらみっともない。大げさに騒ぎ立てていると思われたくない。
頭の中では言いたい言葉がぐるぐると渦巻いているのに、唇が震えるばかりで、音になってくれない。
「……志穂さん?」
先生がさらに心配そうに眉を寄せる。
その優しさが、今の私には息苦しくてたまらなかった。
「……な、なんでも……ないです」
絞り出すようにそう言うのが精一杯だった。
私は逃げるように頭を下げると、ランドセルを抱え直して、駆け足で教室を飛び出してしまった。
重たい足取りで帰宅した祖母の家は、相変わらず夕方の戦場だった。
「ぎゃー! れんくんの! これれんくんのー!」
「あおいちゃんが先! あおいちゃんのー!」
二歳半を過ぎ、自己主張がますます激しくなった双子がリビングで取っ組み合いをしている。祖母が台所でお味噌汁の鍋をかき混ぜ、母は「もう、ふたりとも順番こにしなさい!」と声を枯らしていた。
私はなるべく気配を消して玄関を上がり、居間の隅を通って二階へ向かおうとした。けれど、私の伏せられた顔を見て、母がピタリと手を止めた。
「……志穂? どうしたの?」
「……別に」
「別にじゃないでしょ。目が真っ赤じゃない。学校で何かあったの?」
母は葵の手からおもちゃを取り上げ、私の前にやってきて覗き込んできた。
あの本の大喧嘩以来、母は私に対して頭ごなしに怒鳴ることは減っていた。今回の声にも、苛立ちというよりは純粋な心配が混ざっていた。
私は俯いたまま、ぽつりぽつりと、掃除の時間に言われたことをかいつまんで話した。気取ってるとか真面目すぎるとか言われて笑われたこと。そして、先生に聞かれたのに何も言えなかったこと。
母は私の話を聞き終えると、ふうと困ったように息をつき、私の肩にそっと手を置いた。
「……そっか。でもね、志穂。まだみんな、悪気なく思ったことをそのまま口にしちゃうところがあるから。嫌なら嫌って、その場でちゃんと『そういう言い方されると傷つく』って言えばいいのよ。ちゃんと口で言えば、相手だって分かってくれるわよ」
「……でも」
視界が急速にぼやけて、涙がじんわりと滲んできた。
「……でも、言葉が……出てこないの……」
「え?」
「言おうとすると、喉がカチカチになっちゃって……涙が出てきて、何も言えなくなっちゃうの……っ」
ぽろぽろと零れ落ちる大粒の涙を手首で拭いながら、私はしゃくりあげた。
母の言う「ちゃんと口で言えば分かってくれる」という正論が、今の私にはとても高くて越えられない壁のように思えて、自分がひどく情けなかった。
「志穂……」
母は困り果てたように眉を下げ、おろおろと視線を泳がせた。
昔から活発で、思ったことをハキハキと口にできる母には、「言いたいことがあるのに声が出ない」という私の感覚が、どうしても理解できないようだった。励まそうとしてくれているのは分かるのに、その困惑した表情が、余計に私の心を締め付ける。
「……二階にいる」
私はそれだけ言うと、母の手をすり抜け、階段を一気に駆け上がった。
背後で双子がまた泣き叫ぶ声が聞こえたけれど、もう振り返らなかった。
二階の突き当たり、あの古い物置の引き戸をガラガラと開け、中に飛び込んでピシャリと閉める。
夕暮れの薄暗い部屋の中、本棚に囲まれた部屋の中で体を丸め込み、私は膝を抱えて、声を殺して泣き続けた。




