境界線の崩壊と、禁断の聖域②
「……お母さんが! 私の大事な本を蓮に破られたのに、私のほうが悪いって言って! お姉ちゃんだから我慢しろとか、部屋もないのに出ていけとか、もう意味わかんない! 全部私のせいにして、双子ばっかり可愛がって、私のことなんてどうでもいいんだ!」
話し出した途端、胸の底に溜まっていた泥水が一気に決壊した。ボロボロになった本を抱え、立ったまま、息継ぎも忘れてまくしたてる。頬は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、呼吸がヒューヒューと喉を鳴らしていた。
「はいはい、わかったから。まずは落ち着きな」
類おばさんは眉を下げ、呆れたように言いながら電気ケトルのスイッチを入れた。それから棚の薬瓶のようなガラス容器から、干からびた紫色の花びらと青いドライハーブを慣れた手つきでガラスのポットに放り込む。
お湯を注ぐと、透明な水が一瞬で鮮やかなインクのような青紫色に染まり、スッとするミントと甘いベリーが混ざったような不思議な香りが立ち上った。
「ほら、座ってこれ飲みな」
差し出された耐熱グラスを両手で受け取る。怪しげな色に一瞬たじろいだけれど、口をつけると爽やかな酸味とほんのりした甘みが広がった。
私は床の分厚いペルシャ風絨毯の上にペタンと座り込み、足元にすり寄ってきたコタロウの温もりを感じながら、ひとしきり母への不満や怒りを喋り続けた。おばさんはゲーミングチェアに深く腰掛け、口を挟まずに時折「ふうん」「なるほどねえ」と相槌を打ってくれる。
喋り尽くして喉がカラカラになった頃、私はすっかりぬるくなった青いお茶をごくごくと一気に飲み干した。
「……ふう」
「ふう、じゃないよ。酸欠で倒れるかと思ったわ」
おばさんは苦笑し、眼鏡の位置をくいと直して大きく息を吐いた。
「はあ〜……あいっかわらずの偏屈だね、姉貴は」
(お母さんは、おばさんのことを『偏屈』だってよく言ってるけど……)
心の中でそうツッコミを入れたけれど、口には出さなかった。
「自分だっておばあちゃんに『お姉ちゃんなんだから我慢しなさい』って言われるたび、めちゃくちゃ反抗して壁に穴開けそうになってたくせにさ。自分が親になったら同じことを子どもにするもんかね。自覚がないのかねえ、まったく」
「え……お母さんも?」
思わず目を丸くした。あの「しっかり者で世間体が命」のお母さんが、おばあちゃんに反抗していたなんて、想像もつかなかった。
「そうだよ。あんたのお母さんだって、昔はただのガキだったんだから。……まあ、それはそれとしてさ」
おばさんはスツールの上で足を組み、じっと私の目を見据えた。
「あんたが悔しくて泣いた気持ちは本物だし、大切にしていい。……でもさ、さっき思ってもないことまで勢いで言っちゃったんじゃない?」
ドキッとして、心臓が跳ねた。見透かされている。
「……う。……ちょっと、言い過ぎたかも。双子のことも、手伝いが嫌いなことも……」
私は膝の上で指をいじり、俯いた。
「でも! 先にお母さんがひどいこと言ったんだもん。お母さんが悪い!」
「はは、だね。それは間違いない」
おばさんはあっさりと私の味方をしてくれた。正論で説教されることもなく、ただ私の気持ちに寄り添ってくれる。その絶妙で心地よい距離感に、張り詰めていた肩の力がふっと抜けていく。
「……類おばさんが、私のお母さんだったらよかったのに」
ぽろりと零れた私の言葉に、おばさんは一瞬だけ目を丸くし、それからふっと煙草の煙でも吹き出すように小さく笑った。
「冗談よしてよ。人間を一匹まともに育てるだけでも相当な重労働だよ。ましてや、あの怪獣どもとあんたを一気に三人も? 想像しただけで胃に穴が空くわ。……姉貴の性格は大嫌いだけど、そこんところだけはシンプルにすげえと思うよ」
「……」
「でもね。だからって、あんたが傷ついたことや、我慢を強いられた苦しみが『なかったこと』になるわけじゃない。姉貴の事情と、あんたの辛さは別問題だからね」
「うん……」
「で? 愚痴を吐き出してすっきりしたところで、あんたは今、どうしたいの? 言いたいことや欲しいものはいっぱいあるだろうけど、一番の優先事項は何だと思う?」
おばさんにそう問いかけられて、私は自分の胸の中に手を当てるようにして、一番切実に求めているものを探した。
母への謝罪でも、新しい本でも、可愛い雑貨でもない。私が今、息をするためにどうしても必要なもの。
「……一人になれる、静かな場所がほしい」
迷うことなく、言葉が口をついて出た。
「宿題ができて、本が読めて、誰にも邪魔されない場所。……下の部屋にいると、ずっと誰かの顔色を窺ってなきゃいけないから、息ができなくなっちゃう」
「オッケー。それなら……」
おばさんはゲーミングチェアからよっこらしょと立ち上がり、顎でドアの向こうをしゃくった。
「二階の物置、あんたに使わせてあげるよ。私の本が山積みになってて物置小屋状態だけど、一階のあの戦場に比べりゃ天国みたいなもんじゃない?」
「え?! いいの?!」
「あのチビどもは『二階にはライオンがいる』って信じてるだろうから上がってこれないしね。ほら、おいで」
おばさんに連れられて部屋を出ると、すぐ隣にある、普段は閉め切られたままの古い木製の引き戸の前に立った。
おばさんがガラガラと戸を開けると、ふわっと古い紙と埃の匂いが立ち込めた。
「――わあ……っ!!」
西日が差し込む六畳ほどのその部屋は、四方の壁すべてに木製の本棚が据え付けられ、床から天井まで、ぎっしりと古書や文庫本が詰め込まれていた。
「図書室みたい……!」
少し埃っぽくて、本が崩れそうに積まれているけれど、私にとってはまるでおとぎ話に出てくる「秘密の隠れ家」そのものだった。胸の奥がトクトクと高鳴り、さっきまでの絶望が嘘のように消えていく。
「埃っぽいから、自分で掃除して使いな。友達は……あんまりうるさくない子なら呼んでいいよ」
「真衣ちゃんはすっごく静かだよ! 本が大好きだから!」
「なら真衣ちゃんは立ち入りを許可する」
まるで魔女が城の通行許可を出すような尊大な物言いに、私は思わずくすくすと笑ってしまった。
「ここにある本も、読んでもいいの?」
「んー、古いのばっかだよ? ちゃんと元の場所に戻してくれるなら好きにしていい」
「うん! ちゃんと戻す!」
おばさんは部屋の敷居にもたれかかり、窓の外を眺めながら静かに言った。
「家族だからって、分かり合えることばっかりじゃないよ。姉貴は昔から足が速くて外で目立つのが好きだったけど、私は部屋で本ばっかり読んでた。同じ家で育ったって、最初から違う人間なんだから。ぶつかるのは当たり前」
「……私、お母さんのこと、嫌いなわけじゃない。だけど……」
「うん。嫌いになれないから苦しいんだよね。……それもまた家族の厄介なところだよ」
おばさんは私の頭の上に、ぽんと大きな手を置いた。細くて長い指先が、少しだけ温かかった。
そしてポケットから三つ折りにした千円札を二枚取り出し、私の手のひらに握らせた。
「ほら。その破られた本、私もちょっと読みたかったんだよね。本屋に行って、もう一回同じの買ってきな」
「えっ、でもこれ……」
「時々、面白い本を仕入れて私にも教えて。……大切なものは、下に置いとかないで全部この部屋に隠しておきな」
「……うん! ありがとう、類おばさん!」
夕方。二階の物置を雑巾で拭き上げ、破られた大切に仕舞ってから、私は一階のリビングへと降りていった。
リビングでは、泣き疲れて眠った双子がカーペットに転がっており、母が一人、台所で夕飯の支度をしていた。
トントン、と包丁の音が響く中、私の足音に気づいた母が振り返った。
「……志穂」
母の目は少し赤く腫れていて、顔には隠しようのない疲労が滲んでいた。
「……さっきは、ごめんね。お母さん、いっぱいいっぱいで……あなたにばかり我慢させて、頼りすぎちゃってた」
消え入りそうな声で謝る母を見て、胸の奥がきゅっと痛んだ。
お母さんも、完璧な大人じゃないんだ。昔はおばあちゃんに反抗していた、ただの不器用な一人の人間なんだ。
すべてがすっきり解決したわけじゃない。
明日になればまた双子は暴れるだろうし、母はイライラするかもしれない。私の部屋だって、正式に手に入ったわけじゃない。
でも――。
(……まあ、仕方ないな。今度から大事なものは全部、二階の秘密基地に隠しておけばいいんだし)
自分にできることと、できないこと。
受け止められる範囲と、守るべき自分の境界線。
それが頭の中で整理できただけで、不思議と息苦しくなくなっていた。
「……ううん、いいよ。私も言い過ぎた。ごめんなさい」
私がそう言うと、母はほっとしたように眉尻を下げて笑った。
階段の上を見上げる。
二階の突き当たりの扉の奥には、気まぐれで博識な魔女と、一匹のライオンがいる。
そしてその隣には、私だけの秘密の図書室が待っている。
私はポケットの中の二千円札をぎゅっと握りしめ、明日の放課後に真衣と本屋へ行く約束を思い浮かべながら、小さく笑った。




